自己欺瞞の哲学入門

はじめに

また最後にブログを更新してから一か月経過してしまった。書きたい話題の候補はいくつかあったのだが、ブログの他にも優先したいことが出来てしまい、結果的にブログの執筆に取りかかるのが遅くなってしまった。

さて、今回のテーマは自己欺瞞の哲学である。これは私が専門としている行為の哲学でときおり話題にあがるテーマであるが、振り返ってみると、日常の多くの場面で自己欺瞞という現象があることに気が付くだろう。

今回の記事では、この自己欺瞞の哲学について、前提知識なしでも分かるような形で紹介していきたい。この記事を読み終えたあとで、自分や他人の心の中で生じる自己欺瞞を見つけてニヤリとして貰えれば幸いである。

自己欺瞞の事例

ある男は、人に優しくすることをモットーに生きており、実際に人に優しく接することができていると信じている。しかし、男の日常的な振る舞いを観察してみると、その男の男性に対する接し方は、女性に対する接し方に比べて非常に素っ気ないことが分かる。

このような男に対し、我々は「お前は女好きだから、女性に対してだけ優しくしているのだ」と非難するかもしれないし、口に出さなくても心のなかでは、この男は下心を抱いて人と接していると判断するかもしれない*1

男自身も、男性と女性に対する自分の振舞い方の違いは、自身の下心に由来することにうすうすは気が付いている。しかし、自分が下心のある人間だと認めることは、「自分は優しい人である」というこの男のセルフイメージを否定することにもなり、なかなか受け入れがたい。

そこで、この男は、「自分が女性に対してだけ優しくしているのは、相手が女性だからではなく、たまたまこれまで出会った男性の多くは、礼儀や態度が悪く、私が優しい接し方をするに値しない人間だったから」など、別の理由をでっちあげて、「自分は優しい人である」というセルフイメージを守ろうとする。

こうして、この男の「自分は優しい人である」というセルフイメージは守られたのであるが、しかし同時に、この男は「自分は本当は下心を抱いて人に接している」ということにも気が付いている。むしろ、「自分が下心を持っている」と気が付いているからこそ、必死に自分が下心を持っていることを否定する理由をでっちあげるのである。

以上の女好きの男の事例を見て、なんとなく自己欺瞞がどのようなものかは理解してもらえたのではないかと思う*2ツンデレや、夫の浮気に気が付かない振りをする妻、意中の人に避けられているにもかかわらず相手は本当は自分のことを好きだと思い込んでいるストーカーなど、自己欺瞞の例は枚挙にいとまがない。

自己欺瞞の哲学的な説明

さて、以下では自己欺瞞を哲学ではどのようなものとして捉えており、自己欺瞞の何が哲学者を惹き付けるのかを見ておこう。

不合理性とは何か

まず、自己欺瞞とは不合理性の一種であると考えられる。不合理性とは、合理的でないという意味である。では、合理的とはどういう意味か。それは、その人が受け入れている原理に従って、物事を考えたり行動したりすることである。

誰もが受け入れている原理の一つに、「帰納的推論のための全体証拠の要請」というものがある。

全体証拠の要請

「われわれが相互に排他的ないくつかの仮説のなかから一つを選ぶとき、手に入るすべての関連する証拠にもっともよく支持されるものを信用することを要求する。」(デイヴィドソン(1986)、邦訳327頁)

たとえば、daredemonaiが男性であるか女性であるかを判断するときに、「野太い声をしている」、「Twitterのプロフィールに男と書いてある」、「仕草が女らしくない」などのdaredemonaiが男であることを支持する証拠も、「ダイエット中に綺麗になりたいという発言をしている」などのdaredemonaiが女であることを支持する証拠もあるが、その全ての証拠に基づけばdaredemonaiが男である可能性のほうが高いと判断できるだろう。そうして、全ての証拠から、より確からしいと判断された仮説を信じることが合理的である。つまり、daredemonaiが男であると信じるのは合理的であり、仮にこうした証拠すべてに背いてdaredemonaiが女であると信じたとすれば、それは合理的でない。

この全体証拠の要請という原理を自分は受け入れていると自覚している人は少ないだろうが、それでもほとんどの場面では、人はみなこの原理に従って思考したり行為したりしているはずである。

だが、冒頭で述べたような自己欺瞞の事例では、この全体証拠の要請に反して、つまり証拠全体が支持する仮説ではない仮説を信じてしまっており、その意味で自己欺瞞は不合理なのである。

自己欺瞞の伝統的な理解

金杉(2012)によると、自己欺瞞は伝統的には次のように理解されてきた。

自己欺瞞の主体は、「P」が偽であることを正当化する証拠をある程度所有していて、それゆえPでないという信念B(¬P)を所有しているにもかかわらず、Pであってほしいという欲求D(P)によって動機づけられて、意図的に自らを欺き、Pという信念B(P)を形成する(そして、それを保持する)。(金杉(2012)、47-48頁)

信念とは、信じていることを意味し、ほとんど「知っていること」と同じような意味で捉えてもらって構わない。欲求は「○○したい」や「○○であってほしい」というものである。

つまりここで言われていることを、非常に簡単に言えば、あることが真実だと信じているけど、それを信じたくないから、真実ではないと分かっていることを自分自身に信じさせようとするのが自己欺瞞である。

自己欺瞞の二つのパラドクス

自己欺瞞の伝統的理解からは、二つのパラドクスが生じる。

一つは、自己欺瞞が成功したとすれば、自己欺瞞者は「Pでない」という信念を持ちながら、それと矛盾する「Pである」という信念を持っていることになるが、そのようなことがいかにして可能なのかという問題である。この信念の問題を「信念のパラドクス」あるいは「静的パラドクス」と言う。

また、自己欺瞞にはもう一つ大きな問題がある。それは、自己欺瞞を他者を騙すこととのアナロジーで捉えた際に問題となる、「意図のパラドクス」あるいは「動的パラドクス」と呼ばれるものである。

通常、人を騙すということが成功するためには、騙す側の意図を騙される側が気が付いていないことが条件である。たとえば、ある男が、ある高齢者に振込詐欺をした際に、騙される側の高齢者が、金銭をだまし取ろうとする男の意図を知っていたとすれば、その高齢者が騙されるということはないだろう。

だが、自己欺瞞の場合、騙す側と騙される側が同じ一人の人間だということになるが、その場合、騙される側が騙す側の意図に気が付かないということはあり得ないことのように思えてくる。しかし、もし騙される側が騙す側の意図に気が付いていたとすれば、通常の場合でそうだったように、自己を騙すという行為が成功することはないだろう。そうすると、自己欺瞞は不可能なものになるはずである。

おわりに

自己欺瞞のパラドクスの話は少し突っ込みすぎた部分はあるが、以上で大まかに自己欺瞞の何が問題となっているかが理解されたと思う。

これまで自己欺瞞というものについて、少しネガティブなニュアンスを持たせすぎたかもしれない。だが、発表前に緊張している人が、「大丈夫、自分の発表はよく出来ている。聞いてくれる人も私に好意的な人ばかりだ」などと自分自身に言い聞かせることによって、無事に緊張せずに発表を成功させるということもあるだろう。

冒頭でも述べたが、自己欺瞞というものは日常的にありふれている。それにもかかわらず、哲学的には説明が非常に難しい。だからこそ、哲学者は自己欺瞞という問題に惹かれるのかもしれない。

参考文献(+読書案内)

浅野光紀(2012)『非合理性の哲学 アクラシアと自己欺瞞新曜社

柏端達也(2007)『自己欺瞞と自己犠牲』勁草書房

柏端達也(2014)「自己欺瞞」(信原幸弘・太田絋史編『シリーズ 新・心の哲学Ⅲ 情動編』勁草書房)、159-195頁

金杉武司(2012)「自己欺瞞のパラドクスと自己概念の多面性」(日本科学哲学会『科学哲学』45巻2号)、47-63頁

ドナルド・デイヴィドソン(1986)(塩野直之訳)「欺瞞と分裂」(金杉ほか訳『合理性の諸問題』春秋社)、323-343頁

もし本ブログを読んで、自己欺瞞の問題に興味を持ってくださった方のために簡単な読書案内も載せておく。

まず最も自己欺瞞の問題についてコンパクトに述べられているのが、柏端達也(2014)である。まずはこの文献を読んでみるのが良いと思う。

自己欺瞞の問題を、基礎からしっかり考えたい人には浅野(2012)もおすすめである。この本は、自己欺瞞の具体的なプロセスについて、自然科学の知見も踏まえて考察しており、なかなか興味深い。

他の文献は少し初学者には難しすぎると個人的には思うのだが、興味を持った方はぜひチャレンジしてみてほしい。

*1:相手の振舞いをみて、その人が考えていることがなぜわかると言えるのかというのも行為の哲学の問題になるが、本ブログではこの問題を棚上げしておこうと思う。

*2:実はこの事例は自己欺瞞の典型例というには複雑すぎる。というのも、明白に矛盾した信念をこの男が持っているかどうかは明らかでないからだ。したがって、哲学的な問題を考えるうえで、このような事例を使うのは適切ではないだろう。だが、哲学的な議論を離れて日常的な実践の場に目を移してみると、このような明確に矛盾する信念がないときこそ人は自己欺瞞に陥りやすいのである。