ぽこ堂 一日マスターを終えて

ぽこ堂 一日マスター

1月21日に、VRChat内のぽこ堂で開催された「一日マスター企画」に、一日マスターとして参加させていただきました。

一日マスター企画とは、「特定の専門知識をお持ちの様々な方に一日(2hほど)カウンターに立っていただき、お客さんと専門にまつわる自由な会話を楽しんでいただく試み」*1だそうです。

以前、文系大学院生集会というイベントに参加した際にお話したご縁で、「一日マスターをやってみませんか?」と声をかけていただき、今回のイベントにつながりました。

私が専攻している倫理学は、どちらかというと何をしているのか分からない学問だと思うので、当日人が来るのか心配でしたが、予想をはるかに超えて、50名以上の方がワールドに遊びに来てくださったそうです。

ですが、せっかく大勢の方々に足を運んでいただいたにもかかわらず、私のほうがいただいた質問に的確に答えることができなかったのが、非常に心苦しかったです。

今回は、ぽこ堂で十分に伝えることができなかった倫理学の面白さを文章の形で発信できればと思い、久しぶりにブログを更新してみることにしました。

よろしかったら、ご一読いただけますと幸いです。

※イベント終了後、Twitterでも補足を加えています。こちらのツイートも合わせてごらんいただければと思います。(https://twitter.com/akrasia4771/status/1616845548648267777?s=20&t=ubvctI_rq-xyi9e0NhkZ4g

 

そもそも倫理学ってどういう学問?

私たち人間は、一人で生きているわけではありません。人と人とのかかわりのなかで生きています。この人と人とのかかわりにおいて、私たちが協力し、互いに安心して豊かになっていくためには、「やっていいこと」と「やっちゃいけないこと」を決める必要があります。この「やっていいこと」、「やっちゃいけないこと」を総称して「倫理」と言います。この倫理は、必ずしもみんなで話し合って決めたわけではなく、人と人とが関わり合っていくなかで、自然に生じたものも沢山あります。そうして自然に生まれた倫理を、後から明文化したものもあるでしょう。

この倫理というのは、社会に生きる人であれば、多かれ少なかれ身に付けているはずのものです。皆さんも、人気のラーメン店に入ろうとして、店の前に行列ができていたら並ぶと思いますし、その行列に割り込むことが悪いことだと分かっているはずです。このように、たいていの物事の「やっていいこと」、「やっちゃいけないこと」は、意見が一致しているため、問題になることは少ないです。

しかし、私たちは倫理を完璧に把握できているわけでは決してありません。「私たちが正しいと思っていることは本当に正しいのか?」、「正しいかどうかわからないケースではどうすればいいのか?」といった問題をどのように考えればよいのでしょうか。これらの問いについて、理論的に考えるのが、「倫理学」です。

具体的に倫理学ではどのように考えるの?

倫理学」と一口に言っても、やっている内容は様々です。何が正しくて何が間違っているのかを判断するための理論の体系を整備する人(どういうときに正しいと言えるのかを考える人)もいれば、それらの理論の体系に照らして、具体的な物ごとの正・不正を判定する人もいるし、「そもそも私たちが言っている正しさや善とはどういうものなのだろうか」を考える人もいます。重要なのは、これらの探究をすることで、先ほど挙げた「私たちが正しいと思っていることは本当に正しいのか?」、「正しいかどうかわからないケースではどうすればいいのか?」といった問題に対処できるようにすることが倫理学の目的であるということです。

自殺は善いことなのか?悪いことなのか?

急に刺激の強いトピックを出してしまい、苦手な方には申し訳ないのですが、ぽこ堂で一日マスターをしている際に、この問題について私がどう考えるのかを尋ねられました。改めて、この問題について、ここで少し考えてみようと思います。

まず、「自殺は善いことなのか?悪いことなのか?」という問いについて分析してみましょう。自殺と言っても色々な種類があります。「学校や会社で耐えきれないほどの精神的苦痛を感じ、苦しみから逃れるために自ら命を絶つこと」、「末期がんなどの回復の見込みがない上に苦痛が続く状態から逃れるために、安楽死すること」、「他人のために自らの命を捧げる自己犠牲」等々......。ただし、今回自殺という言葉で意味するのは、一つ目の「精神的苦痛から逃れるために自ら命を絶つこと」に限りたいと思います。

まず、一般的に自殺は悪いことだと考えられている点は説明不要だと思います。ですが、根本から考えることによって、もしかすると、自殺は必ずしも悪いものではないという結論が導かれるかもしれません。

「自殺は善いことである」の論証

例として、「自殺は善いことである」と主張する論証を一つ取り上げてみます。

①人にとって何が最善であるかを最も分かっているのは、その人本人である。

②人は、何が最善であるかを分かっているならば、その選択も常に最善である。

③したがって、自殺が本人の選択の結果であるならば、それはその本人にとって常に最善である。

この論証を聞いて、皆さんはどう思ったでしょうか。こうして言われてみると、まったく理屈がないわけではなさそうですね。実際、①と②が正しければ、③も正しいことになるでしょう。

しかし、これくらいの単純な論証では、穴もたくさんあります。論理自体に矛盾がなくとも、前提がそもそも誤っている場合は、得られた結論を受け入れる必要がなくなります。

まず①について、「何が最善であるかを最も分かっているのは、その人本人である」というのは正しいのでしょうか。たしかに、何が最善かなんて人それぞれであるし、自分の幸福に最も関心を持っているのは自分自身だと言えるかもしれません。しかし、昔やった自分の行いを、後で振り返って後悔するということはよくあることです。

また②についても同様で、人は最善だと分かっていることを必ずしも選択できるわけではありません。例えば、ダイエットしなければならず、そのためには夜にカップラーメンを食べるべきではないと分かっていながら、ついつい食欲に負けてカップラーメンを食べているとき、その選択はその人にとって最善の選択とは言えないでしょう。

このように、単純な論証は簡単に反論されてしまいますが、「自殺は善いことだ」と主張する人も、これで納得するわけではないでしょう。何より、自殺の問題から論点がそれているような気がしますね。これは、最初の「自殺は善いことだ」と主張する論証がどこか不十分であったことを意味するので、反論の余地をなくすべく、理論に修正を加えることが求められます。

「自殺は悪いことである」の論証

また、「自殺が善いことだ」という主張を退けただけでは不十分で、「自殺は悪いことだ」と主張できるのはなぜかも考えてみなければなりません。ここでも論証の例を一つ取り上げましょう。

①人を殺すことは悪いことである。

②自分自身も人である。

③したがって、自分自身を殺す自殺も悪いことである。

これは自殺が悪だと主張する最もシンプルなものです。そして論証も妥当なものになっています。したがって、この結論に納得がいかない人は、①か②が間違っていると考えるしかありません。

①が間違っているという人は、「必ずしも人を殺すことが悪いことだとは限らない」と言うでしょう。たとえば、凶悪殺人犯を処刑することや苦しんでいる人を安楽死させることは悪いことではないと言えるかもしれません。ただし、前者については何も罪を犯していない人を処刑することは悪いことだと考える人は、自殺する人が何が重大な罪を犯したわけでもない限り、自殺が悪いことではないとは言えないでしょう。後者の苦しんでいる人を安楽死させることは悪いことではないと考える人については、自殺も悪いことではないと言う見込みがありそうです。しかし、安楽死の場合はその苦しみが死ぬまで続くことが予想できる状態であるのに対し、自殺は、その苦しみが死ぬまで続くとは限らないという違いがあります。このことが、安楽死は悪くないが、自殺は悪いと言える根拠になるかもしれません。

②が間違っているという人は、自分自身が人であると認めないことになってしまいますが、それはさすがに苦しいでしょう。しかし、①と②を次のように修正すれば、それなりに説得力はありそうです。

①'他人を殺すことは悪いことである。

②'自分自身も他人である。

③したがって、自分自身を殺す自殺も悪いことである。

このように修正したうえで、①'は正しいけど、②'は間違っていると主張するなら、成功する見込みはありそうです。

しかし、①'で他人を殺すことは悪いことであるというのは正しいでしょうが、自分自身を除外する根拠が不明です。もし、自殺を正当化するために、①'の規定に自分自身を除外しているのだとすれば、それは論点先取になってしまいます。この問題を考えるためには、そもそもなぜ人を殺してはならないのかを考えなければならないでしょう。

今回は、なぜ人を殺してはいけないのかという議論にまで踏み込むことはしませんが、以上のような流れで、倫理学では「倫理」を考えています。上の議論は非常に大雑把なもので突っ込みたいところが沢山あったと思います。そうした突っ込みどころは大抵過去のどこかの時点で誰かが考えているので、そうした議論を掘り起こすのが倫理学の学びであり研究であると言えるでしょう。

行為論について

さて、これまで倫理学全般の話をしてきました。が、私の専門は実は倫理学というよりは哲学よりです。

私の専門は、行為論と呼ばれる領域です。行為論とは、行為について哲学的に考える領域で、行為の哲学とも言われます。

行為とは何か

そもそも行為とは何なのでしょうか。この問題を考えるために、「手があがる」と「手をあげる」の違いに着目してみましょう。「手があがる」と「手をあげる」の違いはなんなのかという問いの一般的な答えは、そこに意図があるかないかの違いだというものでしょう。この意図というのは、行為を引き起こす原因であると通常考えられています。すなわち、「手をあげよう」という意図が「手をあげる」という行為を引き起こしたという考え方です*2

また、次のような違いがあるとも言えるでしょう。「手があがる」というのは物理的な現象や動作を記述したものであり、「なぜ手があがるのか」という問いの答えは、「脳のニューロンの発火により......神経を通じて筋肉を収縮するように電気信号が送られ......」みたいなものになると思います。言いかえれば、「なぜ手があがるのか」ということで問われているのは、手があがる「原因」です。他方で、「なぜ手をあげるのか」という問いの答えは、「タクシーを止めようと思って」や「友達に挨拶をしようと思って」といった「理由」になるでしょう。このような行為の理由こそ、行為の「意図」である立場もあります。したがって、意図的行為とは「なぜそうしたのか」という理由が問えるようなものだと言うこともできます。

また、「タクシーを止めるために手をあげよう」という意図を持つ人は、「タクシーを止めたい」という欲求と、「タクシーを止めるために有効な手段が手をあげることである」という信念を持っていたとも言えるでしょう。つまり、意図を持つ人は、それに対応する欲求と信念のセットを持っているということです。なお、信念とはここでは「〇〇だと信じている」ということを意味します。

合理性について

私たちは「あの人は合理的でない」とか「合理的に考えれば、この選択が正しい」とか言いますが、行為論で言われる合理性は少しニュアンスが異なっています。

例えば、傘を手に持っている人が、雨が降っているのに、傘をさしていないとします。この人は不合理な人でしょうか。必ずしもそうとは限りません。もし、その人が傘が壊れていると知っていれば、傘をささないのは合理的です。また、もしわざわざ傘をさす必要がないほど家が近くだとしたら、傘をささないのは合理的です。さらには、雨に濡れたい気分だったとしたら、傘をささなくても不合理ではありません。不合理なのは、雨が降っていると信じており、雨に濡れたくないと思っており、雨に濡れないための最良の手段が手に持っている傘をさすことであり、傘をさすことを妨げる他の事情が一切ないにもかかわらず、傘をさそうとしない場合です。

私たちは、人々が行為するとき、そこには合理的に説明可能な信念や欲求があると考えます。雨の中、傘をささない人がいたら、「なんで?」と思うかもしれませんが、そこには何か理由があるはずだと考えます。そして、「傘が壊れていて使えないんだ」と理由を聞けば、「ああ、そういうことだったのか」と納得します。ですが、「雨には濡れたくないし、傘は使えるんだけど、傘をささない」と言う人がいたとすれば、困惑してしまいます。そして、「本当は雨に濡れたくないと思っていないのではないか」とか「傘をさしたくない他の理由があるんじゃないか」など、その人の行為を合理的に説明する何かを求めます。私たちは、相手が合理的であることを前提にして初めて、相手の行為を解釈することができるのです。もし、常に不合理な振る舞いばかりをする人がいたとしたら、私たちはその人にいかなる信念や欲求も帰属させることができなくなるでしょう。

自己欺瞞と責任

さて、ここからは少し倫理学に話を戻します。

まず、ある人に、その行為の責任が問えるのは、その行為が自由にコントロールできるものであった場合に限るという考えがあります。例えば、車で人を轢いた責任は、通常運転手にあったと考えられますが、もし車のハンドルが急に動かなくなったり、後ろの席の人に脅されてやむを得ず轢いたとしたら、運転手には責任がないという考え方です。

次に、私たちの行為の責任の大きさは、なぜそのような行為をしたのかという行為の理由と、その行為によって引き起こされた結果の重大さによって決まると考えられます。

そのため、人は自分の責任を回避するために、しばしば自分の行為の主張な理由とは異なる理由を、自分の行為の理由だと主張します。

たとえば、人を悪ふざけで押した結果、押された人が転倒して大きな怪我を負ったとき、「つまずいて咄嗟に手をつこうとして押してしまった」とか「たまたま手があたった」などと言って、自分の罪を軽くしようとします。このとき、自分が悪ふざけで押したことを知っていながら、別の理由を自分の行為の本当の理由だというのは、端的に嘘をついているのであり、その嘘をついたことは非難されて然るべきでしょう。

私たちは、監視カメラや複数人の証言から、他人を押した人が、つまずいたわけでも、誰かに押されたわけでもないと判断したとき、他人を押した人は「本当は悪ふざけで人を押したと信じており、したがって、信じているはずのこととは異なることを主張しているのは、嘘をついているからだ」と考えます。実際、相手が合理的であるとすれば、このように解釈することが妥当でしょう。

しかし、もしこの人が自分の行為の主な理由を「つまずいて押してしまった」と本気で信じており、またそれによって「悪ふざけで押した」というもともとの理由とは異なる理由を自分の行為の理由だと主張していたとしたら、それは単に嘘をついていたのと同じように非難しても良いのでしょうか。こうした人は、自分が「悪ふざけで押した」と知っていたはずなのに、それを信じたくないという動機によって、「自分が悪ふざけで押したのではなく、つまづいて押してしまったんだ」と自分で自分を騙している人だとみなすことができます。このような自己欺瞞は、不合理な状態だと言えます*3

人が意図的に自己欺瞞に陥っているとすれば、そこに責任を問う余地はあるかもしれません。しかし、もし自己欺瞞が人のコントロールできるものではなく、不意に陥ってしまうものだとすれば、自己欺瞞によって、もともとの理由とは異なる理由を自分の行為の理由だと主張していたことについては、免責されるかもしれません。

ただ、こうした問題を考えるためには、「自己欺瞞とはどういうものか」、「どのようなメカニズムによって人は自己欺瞞に陥るのか」、「責任を問える条件とはどのようなもので、自己欺瞞の事例はそのような事例に当てはまるのか」といった問いを考える必要があります。

おわりに―徳について

以上で、少しでも倫理学という学問についてイメージを掴めてもらえたでしょうか。ただ、最後に言いたいことは、倫理学という学問を研究することと、日常的に「どうするべきだったんだろう」とか「何が正しいんだろう」と考えることは、それほど隔たっていないということです。

倫理学の研究ということでやっているのは、結局のところ、あるものについて、賛成と反対の意見を聞いて、吟味し、より正しいと思うものを受け入れていく営みです。それは、皆さんも普段の生活で、必ず実践していることだと思います。

私個人の立場ですが、物事の善悪は、状況によってその都度変わるものだと考えています。例えば、嘘をつくことは常に悪いことではなく、人のためにつく嘘などは善い場合があるとも考えています。ただし、このことは、状況に応じて、嘘をつくべきか真実を告げるべきかを正しく判断しなければならないという、より難易度の高いことを要求しています。

こうした、状況を正しく把握し、状況に応じてその都度最善の判断を下し、行為に移すことができる人こそ、徳のある人だと私は思います。私も、最初からそのように徳がある人だったら良かったのですが、残念ながら今のところは、全く適切に判断し、行為できていません。ですが、状況に応じて、その都度、何が最善か、どうするべきかを考えていくことを通じて、どのような状況でも、正しい行為ができる、徳のある人に近づけると考えています。

皆さんも、倫理学の本を読む必要は全然ないと思いますが、どうすればいいのか、何が正しい行為なのか、考えていくことを積み重ねていくことで、徳のある人にきっとなれると思いますよ!!

 

*1:https://twitter.com/poko2021vrc/status/1613121686588784641?s=20&t=ubvctI_rq-xyi9e0NhkZ4g

*2:なお、「意図というものが何なのか(そんなものが本当にあるのか)」、「意図が行為の原因であるという説明は正しいのか」ということは、行為論の最も重要な議論の一つです。

*3:自己欺瞞については以前書いた別のブログ記事を参照 https://daredemonai-dareka.hatenablog.com/entry/2022/10/01/124326