和辻の行為論とVRChat

はじめに

 自身の専門である行為論とは別の行為の説明として、和辻の行為論があると聞いたので、天神のジュンク堂が移転する前のセールで買った中古の和辻の『倫理学』を引っ張り出してとりあえず「第二章」まで読んでみたところ、そこで展開されている議論がなかなか面白かったので、こうしてブログの形で共有したい。

和辻の『倫理学』とはどういう本?

 倫理学者であり、文化史家である和辻哲郎(1889-1960)によって書かれた本で、元々は上中下の三巻本であり、1937年に上巻、1942年に中巻、1949年に下巻が刊行された。

 『倫理学』の目次は以下の通りである。

序論
 第一節    人間の学としての倫理学の意義
 第二節    人間の学としての倫理学の方法
本論
第一章    人間存在の根本構造
 第一節    出発点としての日常的事実
 第二節    人間存在における個人的契機
 第三節    人間存在における全体的契機
 第四節    人間存在の否定的構造
 第五節    人間存在の根本理法(倫理学の根本原理)
第二章    人間存在の空間的・時間的構造
 第一節    私的存在と公共的存在
 第二節    人間存在の空間性
 第三節    人間存在の時間性
 第四節    空間性時間性の相即
 第五節    人間の行為
 第六節    信頼と真実
 第七節    人間の善悪 罪責と良心
第三章    人倫的組織
 第一節    公共性の欠如態としての私的存在
 第二節    家族
 第三節    親族
 第四節    地縁共同体(隣人共同体より郷土共同体へ)
 第五節    経済的組織(付 打算社会の問題)
 第六節    文化共同体(友人共同体より民族へ)
 第七節    国家
第四章    人間存在の歴史的風土構造
 第一節    人間存在の歴史性
 第二節    人間存在の風土性
 第三節    歴史性風土性の相即(国民的存在)
 第四節    世界史における諸国民の業績
 第五節    国民的当為の問題

 内容上の大まかな区分は以下の通りである。

序論:倫理学が採るべき問題設定と⽅法論
第⼀章:存在論
第⼆章:⾏為論
第三・四章:共同体論および歴史哲学

 今回のブログでは、第二章の「行為論」に関する議論を中心に見ていく。「第二章」は第一章で明らかとなった「人間存在の根本構造」に基づいた日常的行為の分析が行われている。したがって、本来は第一章の議論を先に見てから行為論に入っていく方が良いだろうが、一度その構成で書こうとしたところ、文章が長くなりすぎたため、出発点を日常的な行為に置き、そこから和辻の議論を遡るように確認していくことにしたい。

行為とは何か

 和辻の行為論を掴む糸口として、序論に付けられていた和辻の注釈を最初に見ておこう。

 行為と言わるるものの本来の意義は、この主体的な、従って対象的たり得ない者の間の相互連関に存する。在来はこの人格的連関を無視して、人と自然との関係においてのみ行為を見ようとした。そこで行為は(1)明らかな目的観念あるいは動機を有し、(2)思慮、選択、決心を経て、(3)それを自覚的に実現せんとする、(4)人の身体運動だと言われた。しかし、それだけならばただ人の活動であって、必ずしも人格的動作あるいは人の「行い」とはならぬ。たとえば広い河原とか海岸とかで、ある目標を目がけて石を投げる場合など。ところで同じ動作を学校内で窓ガラスを目がけてやれば行為になる。なぜか。ここでは目的観念が他の人格あるいは団体との連関を含んで来る。思慮、選択、決心などが右の連関における己れの態度決定を意味する。すなわち目的観念、思慮、選択、決定などが主体的な相互連関の上で動いている。そこに「行い」としての意義が生じてくるのである。*1

 この注釈で和辻が言おうとしていることは何なのだろうか。

 まず、行為の本来の意味は、主体的で、対象であることができない者の間の相互連関であると言われている。ここで対象であるというのは、客観的対象、すなわち「物」を意味する。しかし、人間という存在は、客観的な対象である「物」とは異なり、主体的に働きかけることのできる「者」である。この「者」同士の関わり合いを、和辻は行為の本来の意味だと捉えているのだ。

 しかし、従来の哲学においては、行為を主体的な人間同士の関わり合いとして捉えず、孤立した人が客観的な「物」を対象とした身体活動を行うことであると見なした。こうして行為は、個人の意志によって引き起こされる身体運動として理解されてきた。補足しておくと、このような行為の理解は、現代の哲学においても主流な考え方である。

 しかし、主体的な人間同士の関わり合い(人格的連関)を無視したものは、それが個人の意志によって引き起こされた身体運動であるとしても、単なる活動(あるいは動作)に過ぎず、行為ではないという。

 それでは行為とは何であるか。和辻によれば、目的観念、思慮、選択、決定などが主体的な相互連関(他の人格あるいは団体との連関)の上で動いているところに「行い」としての意義が生じてくるという。

 それでは、以上のことを具体例を見ながら確認していこう。

 例えば、現代の行為論の標準的な行為の説明に以下のようなものがある。

目の前に食べ物があるという信念と食べ物を食べたいという欲求から、目の前の食べ物を食べようという意図が生じ、そのような意図が食べ物を食べるという行為を引き起こす。

 しかし、和辻はこれは物を食べる動作であっても行為ではないという。しかし、我々の日常の食事は、何らかの作法に従ったものであって、単に動作であることはできない。そして、その作法は我々自身の恣意を超えて社会的に定まったものである。また、もし意識的に箸で食べるべきものを手づかみにするとすれば、それは他の主体に対する何らかの態度の表示にほかならないだろう。たとえば、客として招かれた食事の席でやるなら主人に対する侮辱の表示となるし、友人との会食であればネタとして場をにぎわせるものにもなるだろう。このように食事を行為とするものは人間関係であって物との意志的関係ではないというのが和辻の主張である*2

 そして、このような人間同士の相互連関を和辻は人間存在の空間性と呼ぶ。このような空間性は、物理的な空間とは異なる、主体的なひろがりを意味する。

人間存在の空間性

 それでは人間存在の空間性とは何なのか。以下ではこのことについて簡単に見て行こう。

 まず和辻は「人間」という言葉は、個体的な人を表わすこともあるが、人の間、すなわち「よのなか」「世間」を意味する言葉であったという。したがって、人間とは「世の中」であるとともにその世の中における「人」であるという、対立したものの統一であると考えている*3

 また、「世間」「世の中」に含まれる「間」や「中」という語は、人間関係を言い表している(例:男女の間、夫婦のなか、間を距てる、仲違いをする)。このような人間関係は、空間的な物と物との関係のような客観的な関係ではなく、主体的に相互に関わり合うところの「交わり」「交通」というような、人と人との間の行為的連関である*4

 和辻は、人と人とが連絡する交通や通信といった現象は、「人間がその主体的な存在において、多くの主体に分離しつつしかもそれらの主体の間に結合を作り出そうとしている」ことを表現したものだと考えた。つまり、人間がもともと完全に一つであれば、交通通信によって連絡しようという実践的な動きは生じないが、もし人間が完全に多となって分裂したままであれば、やはり交通通信によって連絡する動きが生じないという理屈である*5

 そして、こうした事実から和辻は以下のように述べる。

本来一である主体が、多なる主体に分裂することを通じて一に還ろうとするがゆえに、主体の間に動きが生じ、従って「人間」の存在が実践的行為的連関として成り立つのである。かく見れば主体的な空間性は畢竟人間存在の根本構造にほかならない。人間を単に人としてでなく個人的・社会的な二重構造を持つものとして把捉したことが、必然にこの主体的なひろがりへ我々を導いて行かざるを得ないのである。*6

 こうして行為を行為として成立させる主体的なひろがりとは、人間存在の根本構造にほかならないことが明らかとなった。

人間存在の時間性

 また、行為は時間的構造も持っている。このことを明らかにするために、「歩行」を例にとって考えてみよう。

 人は職場に出勤するために、あるいは友人を訪ねるために、道を歩いていく。だから「歩行」も交通の一種であり、人間存在の空間的なひろがりを表現するものである*7

 だが和辻によれば、現在の「歩行」は「あらかじめすでに」人間関係によって決定されているという。まず、歩行をするのがなぜかと言うと、未来において何らかの人間関係を成立させるためである。言いかえれば、現在の「歩行」をあらかじめ規定しているのが、可能的な人間関係である。また、働き場所へ出勤し友人を訪ねるということは、一定の労働関係あるいは友人関係が「すでに」存立しているがゆえに可能なのである。したがって、昨日までの間柄は、過ぎ去って消えてしまったのではなく、現前の出勤や訪問において存在し、将に起こるべき今日の関係として現在の歩行を規定していると言える*8

 こうして、「歩行」は主体的な空間性を示すとともに、時間的構造を持つことが明らかとなった。そして、人間存在は主体的にひろがっているが、そのひろがりは、主体的な連絡として、既存の間柄を担いつつ現前の行動において可能的な間柄をめざす、というような構造を持たざるを得ない。このようなことから和辻は、人間存在の時間的構造もまた、人間存在の根本構造にほかならないと言う*9

空間性時間性の相即

 和辻によれば、人間存在の根本構造とは、「人間存在は、何らか共同的なるものから分離し出ることによって個別的となり、個別性を否定して何らかの共同性を実現することによりその本来性に還り行くという不断の運動*10であった。

 これは別の表現を用いると、「自己と他者が合一している状態を本来の状態(自他不二)とし、そこから自己と他者が分離する段階(自他対立)を経て、再び自他不二を実現するもの、すなわち『現前において本に来る』運動」としても言い表すことができるだろう。

 このような人間存在の根本構造は、静的に見られる時、空間性となる。つまり、人間の主体的空間性とは、本来的統一(自他不二)が否定されて自他対立となり、さらに否定されて自他不二的統一となるという否定の運動にほかならない。だからその同じ人間存在の根本構造は、動的に見られる時、時間性となる。現前の自他対立的行動のいて、既有の本来性が、自他不二的に将来される*11

 このように「人間存在の空間性」も「人間の時間性」も、「人間存在の根本構造」の二つの捉え方であって、それぞれ独立したものではないことが明らかとなった。

信頼

 和辻の倫理学にとって「信頼」という概念は非常に重要なものである。

 まず人が救いを期待するのは誰かというと、石や家畜ではなく、他の人々か超人者(神)だけである。後者の超人者とは、その本質から救いの手を差し伸べることが当然であるが、前者は必ずしもそうではない。しかも、人が救いを求めるのは、必ずしも親兄弟や友人に限らず、見ず知らずの他人に対しても行われる*12

 このような信頼は、日常的に見られる。例えば、人は道に迷った時、気軽に見ず知らずの人に道を尋ねる。その人がどんな人で、どのような心構えを持っているかを全然知らない場合でも、その人が自分を欺かず、正しい道を教えてくれると信じている。もちろん、教える人が道に詳しくなくて間違った道を教えることや、意地悪でわざと違う道を教えることもあるだろうが、それは当然期待されるべき親切な態度が欠如している場合に過ぎず、他者に対する一般的な信頼というものを覆すものではない*13

 また、意地悪で嘘を教える人であっても、一般的な信頼が地盤となっているからこそ、嘘によって意地悪をすることが可能なのである。というのも、もし道をきく人がその教わったことを信頼しないのであるならば、いかに嘘を教えても騙しようがないからである*14

 このような信頼の現象は日常に無数に見られるものであり、人間の行為は一般にこのような信頼の上に立っている。そして、信頼の社会的な表現が行為者の持つそれぞれの社会的な「持ち場」である。人が親、会社員、官僚、教師、学生、運転手、農夫、商人、職人等々として行為する時には、あらかじめすでにその持ち場に応じての行為の仕方が期待されているのである*15

 そして、このような信頼は、単に心理的な意味で他を信じるというだけではなく、自他の関係における不定の未来に対してあらかじめ決定的態度を取ることであると和辻は言う*16。これは、先ほど述べた人間存在の根本構造(自他不二の本来性から出て、自他対立の非本来的な状態を経て、再び自他不二の本来性へ帰る運動)を踏まえて言えば、我々の出てきた「本」が我々の行く「先」であり、ここに不定の未来に対してあらかじめ決定的態度を取ることの深い根拠があると考えているのである*17

 以上から和辻は次のように主張する。

人間関係が立っている地盤は空間的時間的なる人間存在の理法であり、従って信頼の根拠である。この根拠の上に人間関係が立つとともに、また信頼も立つのである。だから人間関係は同時に信頼の関係なのであり、人間関係のあるところに同時に信頼が成り立つのである。*18

 しかし、和辻はこのように言ったからといって、不信頼の関係や裏切りの関係がないと主張するわけではない。こうしたものは、信頼の欠如態(本来あるべき信頼が失われている状態)であり、したがって人間存在の理法への背反として、人間存在の最も深い奥底から否定される。ここに、古来「裏切り」が最も憎むべき罪悪として排斥される根拠があると和辻は考えている*19

真実

 和辻は、人間の真実は、個人的存在において見いだされるのではなく、「個人的・社会的なる二重性において、すなわち空間的・時間的に無数の自他へ分裂することを通じて本来の全体性に還帰するところの否定の運動(人間存在の根本構造)」*20において見いだされると考えた。和辻はこのことを繰り返して次のように言う。

人は主体的なる空間・時間において否定的に個人となりまた否定的に人倫的合一を実現する。その時人間の心理が起こるのである。その否定の運動が停滞し帰来の動きが阻止される時、人間の真理は起こらない。そうして真理に反するもの、すなわち、虚偽が代わって現れるのである。*21

真言としての「まこと」

 通常、人間の真実、すなわち「まこと」と言えば、第一に言葉と事実が一致している事態を指しているものと思われている。これが真言としての「まこと」の意義を示すように見える。まことを言い真実を語るというのは、与えられた事実に言葉を合致させることに他ならないというのが、そのような考え方だ*22

 ただ、もしこのような規定が正しいとすると、ある人の認識不足のゆえに嘘として語ったものが偶然事実に一致した場合、この人は真実を語ったことになるが、それは最もらしくない。それでは、もしこの人が嘘を語っているのだとすると、真実と虚偽を決めるのは当人の心構えであって、事実と言葉の合致ではないことになる。ところで、この心構えは、他の人を欺こうとするか否かということであり、このことは真実と虚偽の問題は畢竟対人関係において定まることを意味する*23

 この点を正しく把握すれば、病人に対して病気の真相を隠し偽るのは、病人の幸福への配慮である限り、病人に対する「まこと」であって虚偽ではないと言える*24

真事としての「まこと」

 人間の真実、「まこと」として第二に考えられるのが、言と行との一致不一致である。これが真事としての「まこと」の意義を示すように見える。この考え方は、与えられた言葉に対して行を合致させるのが真実あるいは忠実だり、その不一致が虚偽あるいは不忠実であるという考え方である*25

 与えられた言葉は特に約束として扱われる。だが、約束は単なる言葉ではなく、それは人間関係の表現である。つまり、約束を結んだ人と人とは、いまだ起こらざる未来的関係によってすでにあらかじめ現在の存在を規定するのであって、その限り約束そのものがすでに信頼の行為である。約束に忠実であるのはこの信頼を実現して人間存在の真相を起こらしめることであり、約束に背くのはこの信頼の裏切りである*26

 したがってここでも真実は人間関係によって定まるのであって、この関係から引き離した言と行の一致というようなものではないことが分かる*27

根本悪

 さて、人間存在の根本構造によれば、人間は無数の自他分裂によって対立しつつ、自他不二的に帰来するのであった。和辻によれば、この帰来の運動において真実が起こるとされた。人間存在が人間存在としてある限りは、この否定の運動が全般的に停止する、すなわち真実が起こらないという事態は存在しない*28

 先ほど、信頼という地盤があって初めて嘘をついて意地悪をすることが可能であると言ったが、それと同様に、人間存在において真実が起こらないのは、縦横無尽な行為的連関の局所的、局時的な場面においてしかありえない*29

 和辻は人間存在の根本構造において見られる帰来の運動(否定の運動)を停滞させることを「相互に転換する善と悪とを一面的に固定して悪たらしめるもの」としていたが、それがここでは「虚偽」として明らかにされた。以上より和辻は、「悪の固定すなわち根本悪は、人間存在の真実を起こらしめないことにほかならない」と結論付ける*30

人間の善悪

 真実を起こらしめないことが根本悪であるという命題は、我々にとって善とは何であるかを示してくれる。すなわち、善とは、人間存在の真実が起こること、従って人間の行為が真実にかなうことである*31

 このような考え方は、古来の善悪の観念にも合致する。古い社会においては、行為の仕方は何らかの命令によって規定されており、行為の善悪はそのような命令を基準に判定された。それではこのような命令が権威を持つことができたのはなぜなのだろうか。そこには人間存在の根本原理が君臨していると和辻は言う*32

 権威ある命令の例として、キリスト教十誡と仏教の五戒があるが、ここには「殺すなかれ」「姦淫するなかれ」「盗むなかれ」「偽るなかれ」の四つの命令が共通している。そしてこれらの命令は、現代においても適用性を失わない。このような広汎な一致が存在する理由は、これらの命令が人間の裏切りを禁じるものだからである。先ほど述べたように、人が人に対して持つ信頼は人間存在の根柢をなしている。したがって人殺しはこの根柢からの最も露骨な背反であり人間の信頼への根本的な裏切りである。同様に、姦淫、偸盗、虚偽もそれぞれ信頼に背き真実を起こらしめないがゆえに悪行なのである*33

 だが、このように言うと、善悪の評価は時代や民族によってさまざまではないかという異論が提出されるだろう。例えば、原始社会においては、人身犠牲のように宗教的儀礼として神聖視される殺人行為さえあった。しかし、殺人とは、その本質においては、生物学的な「人」からその「生命」を奪うということではなく、一定の社会においてその成員としての資格を有する者、すなわち信頼関係の上に立っている者からそのあらゆる存在を奪うことである。それゆえ、人身犠牲が真正な儀礼である社会においても、儀礼としてでなく部族員の生命を絶つのは殺人罪である。このように殺人罪を是認し善行とする社会はあり得ず、異なるのはただ殺人罪の成り立つ範囲のみであると言える。そして、その範囲は、ちょうど信頼関係と一致するのである*34

和辻の行為論とVRChat

 さて、長くなったが以上の和辻の議論をVRChatに当てはめるとどうなるだろうか。

フレンド申請

 まず、「フレンド申請を送る」という行為について考えてみよう。

 まず、我々はVRChatにおいて見ず知らずの人に声をかけるところから始める。それは相手が話しかけに応じてくれるという一般的な信頼の上に成り立つ行為である。もちろん、ときには無視されたり、暴言を吐かれたりすることもあるかもしれない。それでも、基本的には相手が好意的に応じてくれることを信頼し、期待し続けているからこそ、話しかけることをやめることはないだろう。

 そして、話し合い、仲良くなった相手に対しては、フレンド申請を送ることが一般的である。これは、過去においてはフレンドでなかった関係であり、未来においてフレンドになるという可能的な関係を目指すがゆえに、現在においてフレンド申請を送るという行為するのである。

 そしてフレンド申請を送るということは、相手を信頼しているという態度の表現であり、また相手ともっと仲良くなりたいという表現でもある。このことからも、フレンド申請を送るという行為が、主体的な相互連関の上に成り立っているがゆえに行為であると言えることが伺えるだろう。

 したがって、ここには、人間存在の時間的・空間的構造が見て取れる。

 また、同時に「フレンド申請を送らない」や「ブロックする」といったこともまた、同様に分析をすれば行為であると言えるだろう。

初心者案内と出会い厨

 噂で聞く程度で実際に目撃したわけではないのだが、チュートリアルワールドで何も知らない初心者さんに対し、出会い厨的な振る舞いをする人がいるらしい。

 初心者案内を受ける初心者の方は、案内してくれる人が色々なことを教えてくれる親切な人だと信頼して着いていく。そのように信頼している初心者に、下心で接近するということは、その信頼を裏切る行為にほかならない。それゆえ、和辻の議論に乗っかって言うのであれば、出会い厨的な振る舞いをすることは、悪であると言えるだろう。

フレンドのフレンド

 フレンドになるということは、互いに単なる見ず知らずの人以上の信頼関係の上に立っていることを示すことである。それゆえ、フレンドのフレンドについても「あの人が信頼しているフレンドなら信頼できるだろう」という一定の信頼を持つことができる。だからこそ、インスタンスを「フレンド+」にすることができると言えるだろう。

 したがって、そのような「フレンドのフレンド」である人間が自分勝手な振る舞いをしたり、暴言やセクハラを吐いたりした場合、そうした信頼を裏切ることになる。

まとめ

 VRChatという特殊な環境にあっても、人間同士の主体的な相互関係の上に成り立っているという人間存在の根本構造は何も変わらない。そのような構造の上に立ってこそ、「フレンド申請を送る」といった行為を始めとして様々な行為が成り立つのである。

 VRChatを始めたきっかけや遊び方は人によってさまざまであると思うが、他者と関わり合いたいという思いは誰もが持っているものだと考える。そして他者と関わるために必要なのは信頼である。だからこそ、そうした信頼を裏切る行為は、悪であり、「すべきでない」と言えるのではないだろうか。

参考文献

和辻哲郎倫理学(一)』、岩波書店、2007年

和辻哲郎倫理学(二)』、岩波書店、2007年

*1:和辻哲郎倫理学(一)』、岩波書店、2007、33頁

*2:同上、356頁

*3:同上、26-28頁

*4:同上、32頁

*5:同上、249頁

*6:同上、249頁

*7:同上、273頁

*8:同上、275頁

*9:同上、280頁

*10:同上、280頁

*11:同上、337頁

*12:和辻哲郎倫理学(二)』、岩波書店、2007年、16頁

*13:同上、17-18頁

*14:同上、18頁

*15:同上、19頁

*16:24頁

*17:同上、25頁

*18:同上、25頁

*19:同上、25頁

*20:同上、26頁

*21:同上、26頁

*22:同上、29頁

*23:同上、29-30頁

*24:同上、30頁

*25:同上、30頁

*26:同上、30-31頁

*27:同上、31頁

*28:同上、40頁

*29:同上、41-42頁

*30:同上、42頁

*31:同上、44頁

*32:同上、50-51頁

*33:同上、51頁

*34:同上、51-54頁