ボールをぶつけたのか、ボールがぶつかったのか

はじめに

前回のブログを更新してから2か月以上経過してしまったが、今日Twitterのタイムラインに上がってきた話題がたまたま自分の修論にも関係しそうなトピックだったため、重い腰をあげて、ブログを書いてみることにした。

その話題とは、とある日本人テニス選手が、プレイとプレイの間にボールを相手コートに返球したところ、そのボールが相手コートの外で待機していたボールガールの頭部に直撃してしまったというものだ。この選手は、ボールガールに謝罪をしたものの、試合自体は危険行為をしたとして失格処分となり、その後自身のTwitterに謝罪のコメントを載せた*1

現在、主に議論されているのは、この失格というのは処分として妥当なものであったかどうかという点ではあるが、本ブログではこの点について触れるつもりはない。

今回私が着目したいのは、この選手が打ったボールがボールガールに当たったことに関しては、多くの人がこの日本人選手に責任があると考えていることである。このことは自明なことのように思われるが、ここから行為と責任に関する興味深い考察を導くことができると考えている。

行為とは何か

意図的行為

そもそも行為とは何だろうか。行為という言葉は日常的にも頻繁に使われるものではあるが、改めてそれが何かと問われると、なかなか答えに窮するだろう。

私自身、この問いに対する満足できる答えは持ち合わせていないが、今回このブログを通して、少しだけ行為に対する理解を深められたらと思っている。

行為とは何かを解明する最初の手がかりとして、ルートウィヒ・ウィトゲンシュタインが提示した次の問いに着目しよう。

私が腕を上げるという事実から、私の腕が上がるという事実を差し引いたとき、何が残るのか?(ウィトゲンシュタイン哲学探究鬼界彰夫訳、2020年、§621)

ここで問われているのは、手を上げるという行為と手が上がるという物理的な事実の違いは何であるかということである。

この問いの答えは様々なものが考えられるが、すぐに思いつく答えとしては、手を上げようという気持ち、手を上げたいという思いなどが考えられるだろう。つまり、手を上げるという行為は、意志や意図などといった心の働きを伴う身体動作であるというのだ。

ここから、行為を次のように定式化することができる。

 

(A)行為とは、意志や意図といった心の働きを伴う身体動作である。*2

 

しかし、意志や意図とはいったいなんなのか。それは身体動作とどのように関わっているのか。実は、この点が行為の哲学の中心的な論点となっている。

まず、基本的な立場であり、現在もなお支持者が多い考え方として、意図が行為を引き起こす原因であるという立場がある(行為の因果説)。つまり、ある人が手を上げたのは、「手を上げよう」という意図をその人が持ったからであるという考え方だ。しかし、心という非物理的なものの状態が、どのようにして身体という物理的なものの原因となるのかが明らかでない。

そのため、意図は行為の原因ではないという立場を取る論者もいる(行為の反因果説)。例えば、ギルバート・ライルは「承知しました」と発話する行為は、特定の状況の下で「承知しました」と言いがちであるという傾向性を持った人が、そうした特定の状況に置かれた際に、「承知しました」と言うことだと考えた。この行為の反因果説において、意図はもはや行為の説明に必要ないとする立場もあるが、現在は意図を、行為は「なぜそのように行為したのか」を説明する理由として捉える立場が主流である*3

何はともあれ、行為には通常意図が伴うとされ、そうした行為を行為の哲学では「意図的行為」と呼ぶ。だが、後に見るように、意図的でない行為も存在する。

行為の再記述と同一性テーゼ

ここで行為に関わる重要な問題を一つ確認していきたい。それは、行為は様々な仕方で再記述が可能であるということに関する問題である。

例えば、ある男は、「腕を動かす」という行為をしているが、それは「ポンプを操作する」という行為や「上水道に水を供給する」という行為、「住民に毒を盛る」という行為としても記述することができる。

問題は、腕を動かし、ポンプを操作し、上水道に水を供給し、住民に毒を盛っている男は4つの行為をしていると言うべきか、それともただ一つの行為をしているべきというべきかどうかというものだ。

仮に、これらが同じ一つの行為だとしよう。だが、ポンプを操作し、水を供給することは意図的だったとしても、それが住民に毒を飲ませることになるとは夢にも思わなかったということはあり得るだろう。すると、同じ一つの行為が異なる記述のもとで意図的であったりなかったりすることになる。このことは少し奇妙なことのようにも思われる。

だが、もし異なる記述が与えられる行為をすべて異なる行為とするならば、行為には無数の再記述の可能性があるため、私たちはある行為をしたときに、同時に無数の行為をしていることにもなる。このこともまた奇妙に思われる。

殺害の時間の問題

上記の行為の同一性に関わる問題として、「殺害の時間の問題」というものがある。それは次のような問題である。

 

ワイスは議員であるロングを殺すために、銃で狙撃した。銃撃は成功したが、駆け付けた警察官によってワイスは即座に射殺された。ロングは銃撃をうけた30時間後に死亡した。このとき、ワイスがロングを殺したのはいつなのか。

 

この問題の答えは、次のいずれかになると通常考えられるだろう。

 

(1)ワイスがロングを殺したのは、(A)ワイスがロングを撃ったとき、あるいは(B)ロングが死亡したときのいずれかである。

 

しかし、(A)も(B)もいずれを選択しても、強い反論がある。

まず、(A)に対する反論は以下の通りである。

 

(2)ワイスがロングを撃ったときに殺したのであれば、ロングは殺されたがまだ生きている期間があった。

(3)ある人が時点tで殺された場合、その人はtの直後には死んでいる。

→このことは矛盾している。

 

また、(B)に対する反論は以下の通りである。

 

(4)ロングが死んだときにワイスがロングを殺したとすれば、死人がロングを殺したことになる。

(5)死人は行動できない。

→このことは矛盾している。

 

この問題を解決するためには、前提(1)~(5)のどこかに間違いがあることを指摘する必要がある。

例として、デイヴィドソンの解答を見てみよう。デイヴィドソンは、行為は身体運動であり、この場合狙撃することと殺害することは同じ一つの行為であると考えている。そのため、この問題は前提(3)を否定することによって解決できると考えた。つまり、「殺害すること」を「死を惹き起こす何かをすること」だと考えればよいというものである。

また、他の解答の例として、ロイ・A・ソレンセン(Sorensen, 1985)の解答も見てみよう*4。彼は、ワイスがロングを殺害するという行為は、ワイスがロングを撃ったという出来事とロングが死亡するという出来事から構成される散在する出来事であると考えた*5。そのため、前提(1)を否定し、ワイスがロングを殺したのは、「1935年」とか「ロングが議員に在任している間」などと答えるほうが適切であると主張する。

私も基本的にソレンセンの見解に賛成し、ワイスがロングを殺害するという行為は、ワイスが銃撃をしてからロングが死ぬまで行われていたと考えるべきだと思っている。だが、他方でワイスの銃撃するという行為と殺害するという行為は同一の行為を異なった仕方で再記述したものに過ぎないと考えている。

すなわち、ある時点tにワイスは銃撃するという行為をし、ある時点t'にロングが死んだとすると、時点tにおいてはワイスの行為は銃撃する行為ではあるが殺害という行為をしたとはいえないが、時点t'になるとワイスの時点tにおける行為を銃撃する行為としても殺害するという行為としても記述することができるようになるというのが私の考えだ*6

責任とは何か

冒頭で「この選手が打ったボールがボールガールに当たったことに関しては、多くの人がこの日本人選手に責任があると考えている」と書いたが、このとき「責任」という言葉で想定しているのは、何らかの法的規範に違反することから問われるような「法的責任」ではなく「道徳的責任」と呼ばれるものである。

それでは、この道徳的責任はどういうときにあると言えるのだろうか。例えば、電車の中で誰かが私の髪を強く引っ張るので振り向いてみるとする。そのとき、髪をひっぱったのが赤ん坊であれば、私はその子に憤ったりしないが、髪をひっぱったのが赤ん坊を負ぶっている母親だとすれば、「なんてことをするのか」と憤慨するだろう。このとき、道徳的責任というものについて考えてみると、赤ん坊が私の髪を引っ張った場合には、その行為の責任が赤ん坊にあるとは思えないが、母親が私の髪を引っ張った場合には、その行為の責任は母親にあると言えるだろう。このことから、憤慨と責任との間には、次のような関係があるように思われる。すなわち、相手がある行為を行ったときに、その行為を理由に相手に憤慨するのは、相手がその行為に関して責任がある場合であり、そうでない場合には、相手に憤慨することはない

このことは、憤慨という心情だけでなく、恨み、軽蔑、責め、感謝、賞賛、尊敬、非難などといった他の心情にも当てはまる。こうした心情は「反応的態度」と呼ばれ、この概念を用いて道徳的責任の概念は次のように定式化される。

 

そして、ある人Sが行為Aを行ったことに関して道徳的責任があるということは、Aを行ったことを理由にSに賞賛や非難といった反応的態度を向けることが適切であるということである。

 

この定式化はかなり不十分なものであるが、今回の議論ではひとまずこの定式化で満足しておくことにしよう*7

ボールをぶつけたのか、ボールがぶつかったのか

さて、長い前置きが終わり、ようやく本題に入ることができる。

もう察しが付いているかもしれないが、ここで問題にしたいのは、冒頭の例に挙げた日本人選手が打ったボールがボールガールに当たったことを、「この日本人選手がボールガールにボールをぶつけた」と記述していいのかどうかというものである。

本人の謝罪文にもあるように、この選手はボールガールにボールを当てようという意図を持ってボールを打ったわけではない。したがって、「この日本人選手が故意にボールガールにボールをぶつけた」と記述するのは誤っているだろう。

それでは、「この選手がボールを打つという行為をした結果、ボールガールにボールが当たった」という記述が正しいのだろうか。確かに、このような記述は正しい記述の一つではあるだろう。ただし、この記述を唯一の正解だとしてしまうと、この日本人選手が行ったのはボールを打つという行為までであり、ボールガールにボールが当たったことは、その行為の望ましくない結果に過ぎないことになってしまう。もちろん、ある望ましくない結果が自らの行為が原因で引き起こされたとき、その結果に対しその人が責任を問われるということはあるだろう。例えば、私が机の上に友人から借りた本を置いた状態で出かけたら、留守番中の犬が本を嚙み散らかしてしまったとき、私には机の上に不用意に本を置いた責任を問われるだろう。だが、このとき本を破いたのは私がしたことではない

他方、ボールガールにボールが当たったことは、やはりこの選手のしたことではないだろうか。したがって、「この選手はボールガールにボールをぶつけた」と記述することは適切であると私は主張したい。

そして、「ボールを打つ」という行為と「ボールをぶつける」という行為の関係は、上述した「殺害の時間の問題」における、射撃と殺害の関係に相当する。すなわち、この選手が時刻tにおいてボールを打ち、時刻t'においてボールがボールガールに当たったとすると、時刻tにおいてはこの選手がした行為はボールを打つという行為ではあるがボールをぶつけたという行為ではないが、時刻t'になると、ボールを打つという行為としてもボールをぶつけるという行為としても記述することができる。ただし、再度述べておくが、この選手のボールを打つという行為は意図的行為であるが、ボールをぶつけるという行為は非意図的な行為である。しかし、その二つは同一の行為の異なる記述である。

そして、この日本人選手がボールをぶつけるという行為をしたことはそれが非意図的なものであったとしても非難に値するものであると多くの人が考えているが、そのように、この日本人選手のボールをぶつけるという行為に関して、非難という反応的態度を向けることが適切であるならば、この日本人選手はボールをぶつけるという行為に関して道徳的責任があると言えるだろう*8

おわりに

行為と責任について考えていたところ、Twitterで今回取り上げた話題が目に入ったため、衝動的にブログを書いてしまった。今回は、読みやすいブログにするために、複雑な哲学的な議論をほとんど無視して、私の立場を述べてしまっている。しかし、当然ながら、ここで省かれている複雑で厄介な哲学的な議論こそ、私が逃げずに向き合わなければならない課題だろう。

また、今回のトピックは、「行為と責任」だけでなく、「人格と責任」という角度からも議論が可能であると考えているが、この点についてはまた機会があれば改めて論じることにしたい。

参考文献

柏端達也(1997)『行為と出来事の存在論勁草書房

Sorensen, R., 1985, "Self-Deception and Scattered Events," Mind 94, 64-69.

成田和信(2004)『責任と自由』勁草書房

古田徹也(2013)『それは私がしたことなのか』新曜社

 

 

*1:

加藤未唯、全仏OPの賞金とポイント没収に 複3回戦で危険行為により失格処分<女子テニス>(tennis365.net) - Yahoo!ニュース

*2:ここで身体動作を伴わない行為もあるのではないかという指摘をしたくなるかもしれない。例えば、頭の中で計算するといったことは身体動作を伴わないが行為と言ってしまって良いようにも思われる。だが、こうした身体動作を伴わない行為があり得るか否かという問題は今回は脇に置いておくことにする。

*3:このように、意図を行為の理由と見なす考え方は、G・E・M・アンスコムが最初に提出した。また、この意図を行為の理由と見なす考え方は、行為の因果説の立場に立つ論者にも基本的に受け入れられている。例えば、行為の因果説の代表的論者であるドナルド・デイヴィドソンは、意図は行為の原因でもあり理由でもあると主張している

*4:ここでソレンセンを取り上げたのは、私が自己欺瞞に関する先行研究を探していたときに、ソレンセンが自己欺瞞のパラドクスを解決するための提案をする文脈で「殺人の時間の問題」に言及していたからである。

*5:ここでいきなり行為を出来事と見なすという考え方が導入されている。なぜ行為を出来事とみなすべきかについては、柏端(1997)を参照されたい。

*6:だが、この点については要検討である。

*7:この定式化をより完全なものとするためには、少なくとも「適切」の意味を限定する必要がある。また、そもそも行為の主体Sが、精神疾患を抱える人や赤ん坊ではなく責任を負うことができる主体であるというのも条件に含めるべきだろう。またここでは「責任とは何か」についての定式化しか行われておらず、「責任がある」と言えるための条件については何も言っていないことにも注意すべきである。この「責任がある」と言えるための条件については、また機会を改めて紹介できたらと思う

*8:ここで私は、この日本人選手を非難することが適切であるなどという主張をしたいわけではない。