フィッシャーとラヴィッツァの責任論

はじめに

前回ブログを更新してからもう100日以上の日数が経過していたらしい。信じられないくらい月日が経つのが早い。

今回のブログでは、前々から取り上げたかった道徳的責任に関する議論をまとめたいと思う。今回注目するのは、J. M. Fischer & M. Ravizza(以下F&Rと表記)が著書『Responsibility and Control』(1998)で展開した責任論である。F&Rの責任論は、責任帰属のあり方を我々の直観に基づいて理論的に体系化しており、哲学や倫理学を学んだことがなくても楽しめると思う。

なお、今回のF&Rの責任論をまとめるに際に、用語の訳やその説明を書くにあたって、壁谷彰慶(2006)による『Responsibility and Control』の書評を大いに参考にしている。参考文献に載せてあるので、F&Rの責任論に興味を持った方は、ぜひそちらを読んでみて欲しい。

そもそも道徳的責任とは何なのだろうか

さて、責任という言葉を聞いて皆さんは何を思い浮かべるだろうか。日常的には、「あの人は責任感が強い」とか「不祥事の責任をとって議員を辞職する」とか「交通事故を起こすと、刑事上の責任、行政上の責任、民事上の責任の3つの責任が問われる」など、様々な文脈で「責任」という言葉が用いられている。

だが、ここで問題にしたい責任は上記の責任とは異なる「道徳的責任」と呼ばれるものである。それでは道徳的責任とは何か。

ここで次の例を考えて欲しい。

あなたの家の前にゴミが散らかっている。しかし、親切な隣人があなたが外出している間にゴミを片付けた。

このとき、あなたが隣人がゴミを片付けてくれたことを知れば、この隣人に対して感謝するし、なんて親切な隣人なのだろうと賞賛するだろう。

だが、次の例ではどうだろうか。

あなたの家の前にゴミが散らかっている。しかし、ちょうどやってきた台風が風でゴミを吹き飛ばした。

このとき、あなたは台風がゴミを片付けてくれたからといって、台風に対し、感謝したり賞賛したりするだろうか。まずしないように思われる。

また、もし隣人があなたの家の前にゴミをまき散らしていたとすれば、あなたは隣人に対し、「なんでそんなことするんだ」と非難したり、「ひどい人間だ」と軽蔑したりするだろう。しかし、台風の影響でゴミが散らかった場合は、がっかりしたり片付けが面倒だと感じるかもしれないが、台風を非難したり軽蔑したりはしないだろう。

ストローソンは、こうした責め、恨み、憤り、軽蔑、あるいは、感謝、賞賛、尊敬といった態度を、ストローソンは「反応的態度」(reactive attitude)と呼び、この反応的態度が我々の責任帰属のあり方に密接に関わっていると主張する(Strawson 1962)。ストローソンの基本的な主張は次のようにまとめることができる。

(R)ある人Sは、行為Aを行ったことに関して責任がある=SはAを行ったことを理由にSに何らかの反応的態度を向けることは適切である。*1

だが、問題は、どういうときにAを行ったことを理由にSに何らかの反応的態度を向けることが適切になるかというものである。以下では、この点について検討する。

自由と他行為可能性

さて、次のような状況を思い浮かべて欲しい。

あなたが車を運転していたところ、突然車が故障し、ブレーキも効かずハンドルも動かせない状況になった。制御不能のまま車は加速し続け、やがて道を横断していた老人を轢いて死なせてしまった。

このとき、あなたには車で老人を轢いて死なせたことで非難されたりしない(=責任はない)だろう。

また、次のような事例も考えてほしい。

あなたは銀行の窓口で働く職員である。日中仕事をしていると、突然銀行強盗が押し入り、あなたに銃を突きつけた状態で金銭を要求してきた。あなたは恐怖に支配され、金庫の鍵を開け、強盗に金銭を渡した。

このときも、あなたが強盗に金銭を渡したことで非難されたりしない(=責任はない)と思われる。

ではなぜこの二つの事例において、あなたに責任がないと思われるのだろうか。それは、あなたの行為があなたの自由によって為されたものではないからである。つまり、あなたがした行為に責任を問われるのは、その行為があなたの自由に為された行為でなければならないということである。上記のように、他の行為をする余地がなかった(=他行為可能性がない)場合や、物理的/心理的な強制があった場合は、あなたがした行為であったとしても、それによってあなたが非難や賞賛されたりすることはない。言い換えれば、行為者が自らの行為に責任を負うのは、その行為が行為者がそうしないことも自由に選択できたという意味でのコントロール下にあった場合だけであると言える。このようなコントロールをF&Rは「統制コントロール」(regulative control)と呼ぶ。

フランクファートの反例

だが、フランクファートという哲学者が、他行為可能性がなかったにもかかわらず、行為者が行為の責任を問われる場合があると主張した(Frankfurt 1969)。そのとき反例として挙げられた事例は、少々複雑だが、大まかには次のようなものである。

Assassin
「サムは市長を狙撃しようと心に決めた。だが、サムはあずかり知らないことであるが、もしサムが心変わりし狙撃をやめようとすれば、ただちにジャックがサムの頭の中に埋めた電子チップを操作し、再びサムに狙撃の意図を生じさせる。しかし、実際にはサムは一度も心変わりすることなく、市長の狙撃を実行した。」(F&R 1998, pp.29-30)

この例においてサムは狙撃を回避することができなかった(=他行為可能性がなかった)にもかかわらず、サムには道徳的責任があるように思われる。つまり、責任に必要なコントロールとは、実は統制コントロールではないということである。

それでは、責任に必要なコントロールとはどのようなものなのだろうか。

誘導コントロール

責任に必要なコントロールとしてF&Rが挙げるのが、「誘導コントロール」(guidance control)と呼ばれるものである。誘導コントロールとは、ある種の仕方で現実に行為を導く能力を指す。

F&Rによれば、行為者が誘導コントロールを行使したと言えるための条件が、「現実に行為を導いているメカニズム*2」が適度な「理由応答性」(moderate reasons-responsiveness)をもつということにある。

「理由応答性」は、さらに理由を認識する能力(「理由への受容性」(Receptivity to reason))と、そこで認識した理由に従って選択/決定し、その選択にもとづいて行為する能力(「理由への反応性」(Reactivity to reason))という二つの要素に分けられる(F&R [1998], pp.34-41; 壁谷 2006, p.190)。

例えば、あなたが隣にいる人を手で叩いたとき、あなたが「ハエを追い払いたかった」という理由を認識し、実際に「ハエを追い払うため」という理由に従って手で叩いたならば、あなたの「隣にいる人を手で叩く」という行為は、適度な理由応答性をもつメカニズムよって導かれている。すなわち、この行為は行為者の誘導コントロールが行使されているため、あなたに隣にいる人を手で叩いたことの責任を帰属させるのは適切である。

適度な理由応答性

「強い受容性」

ただし、行為者がどんな理由であれ理由として認識していれば、責任帰属に必要十分な「理由への受容性」を持っているということにはならない。

例えば、ある女性がフェリーの中で、ある老人が煙草を吸っているのを見た直後に近くの男性にナイフで切りかかったとする。このとき、この女性が近くにいる男性に切りかかった理由が「老人が煙草を吸っていたから」というものしかなかったとすれば、この女性は隔離や治療の対象であるかもしれないが、責任を帰属させることが適当な主体としては認められないだろう*3

つまり、責任帰属に必要十分な「理由への受容性」とは、「理由の認識において、客観的に(第三者に)理解可能な規則性を示すものでなくてはならない」という意味での「強い受容性」でなければならない(F&R [1998], pp.69-73; 壁谷 2006, p.190)。

弱い応答性

それでは、「理由への反応性」についてはどうだろうか。それがもし行為Aをする理由があったときには必ずAをし、Aしない理由があるときにはAしないといった強い対応関係を想定しているのだとしよう。すると、「タバコを吸うべきでない」という理由を認識しているにもかかわらず、ついついタバコを吸い続けてしまうような意志が弱いだけの者まで免責されてしまうことになる。だが、こうした意志の弱さに基づく行動は一般に非難に値するものだと考えられているため、「強い反応性」は適切ではない。

かといって、理由に対して全く反応しない主体も、責任を帰属させる主体としてふさわしくないだろう。

それゆえ、「理由に対する反応性」は、「認識された理由に対して、何らかの反応性(=その理由にしたがって行為する能力)を示すだけでよい」という「弱い反応性」でなければならない。それは、Aしたことの道徳的責任を問うためには、Aしない理由があるときにAしない可能世界(=論理的に有り得るような別の世界)が少なくとも一つ存在するのでなければならないということである(F&R [1998], pp.73-76; 壁谷 2006, p.190)。

F&Rによる責任帰属の必要十分条件

以上の議論をまとめると、責任帰属の必要十分条件としてF&Rが考えるものは次のようになる。

「行為者にある行為に対する責任帰属ができる(=行為者は行為に対する誘導コントロールをもつ)⇔行為を生み出す行為者のうちのメカニズムが、行為者自身のものであり、そしてそれは適切な理由応答性をもつ。つまりそのメカニズムは、理由を受け入れる能力があり、かつ、適切な仕方でその理由に対して反応する能力をもつ。」*4

行為の結果に対する責任

F&Rは行為者が自らが為した行為の帰結に対して責任を負う条件についても論じている。

F&Rの議論を説明するために、次のような事例を考えてみて欲しい。

【Airplane】
「マイケルは飛行機のパイロットである。だが、彼が操縦していた飛行機は、飛行機の操縦のために不可欠な油圧が完全に喪失しており、墜落することは避けられない。このまま飛行機が墜落すれば、住宅地であるA地点に飛行機が突っ込むことになる。しかし、マイケルは左右のエンジンの出力を調整することで、飛行機の墜落地点を少しだけずらし、A地点よりは人の少ない山間部のB地点に飛行機を誘導することができる。マイケルは何とか飛行機の誘導に成功し、飛行機はB地点に墜落した。」

この例において、マイケルは<(どこかに)飛行機が墜落すること>という帰結を避けることはできなかったが、<B地点に飛行機が墜落すること>という帰結を避けることはできた(例えば<A地点に飛行機が墜落すること>も意図すれば可能だった)。そのため、<(どこかに)飛行機が墜落すること>という帰結に関してマイケルは統制コントロールを持っていなかったが、<B地点に飛行機が墜落すること>という帰結に関しては統制コントロールを持っていたと言える。したがって、マイケルが<(どこかに)飛行機が墜落すること>という帰結に関して非難されたり賞賛されたりすることはない(=責任はない)だろうが、<B地点に飛行機が墜落すること>という帰結に関して非難されたり賞賛されたりする(=責任がある)ことは考えられる。実際、マイケルは少しでも人の少ないB地点に飛行機を墜落させたということで賞賛されるかもしれないし、B地点に飛行機が墜落したことで家族を亡くした遺族からは非難されるかもしれない。

このとき、<マイケルの誘導の結果として飛行機がB地点で墜落すること>を「帰結個別者」(consequence-particular)、<(どこかに)飛行機が墜落すること>を「帰結普遍者」(consequence-universal)と呼ぶ*5

統制コントロールの有無で判定する問題点

だが、行為の帰結の責任を統制コントロールの有無で判定しようとすると、次のようなケースで不具合が生じる。

Assassin 2】

サムは雇われて人を殺す殺し屋である。サムは依頼されて市長を狙撃することにした。だが、サムの雇い主は心配性で、別の暗殺者であるジャックにも市長殺人の依頼をしていた。ジャックは、もしサムが暗殺を中止したり、狙撃が失敗したとすれば、ただちに市長を狙撃していた。だが、サムは計画通り市長の暗殺を実行した。

さて、この例を帰結個別者と帰結普遍者に分割して分析してみよう。まず、<サムの狙撃の結果として市長が死ぬこと>という帰結個別者については、サムは避けることができたため、統制コントロールを持っていたことになり、責任を負っている。だが、<(何らかの仕方で)市長が死ぬこと>という帰結普遍者については、サムが避けることはできなかった。そのため、統制コントロールは持っておらず、サムは<市長が死ぬこと>という帰結普遍者に対して責任を負うことはないということになる。

だが、サムに<市長が死ぬこと>の責任がなかったというのは、やはり問題がある結論のように思われる。この事例で、サムは帰結個別者だけでなく、帰結普遍者に対しても責任を負わなければならないのではないか。

誘導コントロールによる責任帰属の判定

そこでF&Rは、帰結普遍者の成立を避けることができなくても、その普遍者に対する誘導コントロールが持てるのであれば、行為者が帰結普遍者に責任を負うことがあると主張する。F&Rによれば、帰結普遍者に対する誘導コントロールは、帰結を導く「系列」(sequence)が応答的であることによって特徴づけられる(壁谷 2006, p.193)。

「系列」はさらに、行為者の身体運動を導くまでの「内部メカニズム」(inner mechanism)と、外的世界の中で身体運動から当の帰結に至るまでの「外的経路」(outer path)の二段階に分けられ、それぞれの応答性が問われる(壁谷 2006, p.193)。

内部メカニズムの応答性とは、上記で述べた、行為者の内にある行為を生み出すメカニズムの適度な理由応答性のことである。また外的経路の応答性とは、身体運動に対して「可感的」(sensitive)であることを意味する。それは、身体運動が異なっていれば、帰結普遍者も異なっている(=当の帰結普遍者は生じない)だろう、ということである。(F&R [1998], pp.106-107; 壁谷 2006, p.193)

また、ある帰結を因果的に生じさせるような出来事を「起動出来事」(triggering event)と呼ぶが、この外的経路の可感性を評価する際、現実の系列では何の役割も果たしていない起動出来事については、すべて現実には生じていないということに固定(hold fixed)しておく必要がある(壁谷 2006, pp.193-194)。

2つの事例における行為者の責任帰属

これらを踏まえて、上述の「Airplane」と「Assassin 2」の例について分析してみよう*6

「Airplain」において、マイケルには<(どこかに)飛行機が墜落すること>という帰結普遍者に対する責任は生じない。というのも、マイケルの身体運動と、彼の身体運動から<飛行機の墜落>という出来事に至るまでの外的経路からなる現実の系列が応答的ではないからである。もちろん、身体運動に至るまでの第一の要素は適度に理由応答的である(その意味では、マイケルは飛行機の墜落地点変更という彼の行為に対して責任をもつ)。しかし、マイケルがどのように身体を動かそうとも、飛行機が墜落することは避けられなかったため、マイケルの身体運動から<飛行機の墜落>に至る外的経路は、その身体運動に可感的ではない。

Assassin 2」では、現実の系列でサムの狙撃という行為を導く内部メカニズムは適度に理由応答的である。また、外的経路の可感性を確かめる際には、現実には生じていない、<ジャックによる市長の狙撃>という起動出来事が生じていないことに固定しておく。するとサムの身体運動から<男性が死ぬこと>という帰結普遍者へと至る外部経路は、行為に対して可感的である。というのも、サムが引き金を引かなければ、市長は殺されなかったと思われるからである。したがって、誘導コントロールにとって必要な二つの要素が現れており、サムは、<市長が殺害されること>という帰結普遍者である事実に対して、たとえそれを避けることができなかったとしても、責任をもつ。

F&Rの責任論のまとめ

以上のように、F&Rは、自らの行為に対する責任や自らが為した行為の帰結に対する責任について、いずれも行為者が誘導コントロールを行使できた場合にのみ行為者に責任を帰属させると考える。

感想

F&Rの責任論は、我々の日常的な責任帰属のあり方について、ある程度まで納得できる責任を提供しているように思われる。だが、彼らが考えている責任とは、第三者からみた行為者の責任帰属のあり方だと思われる。

しかし、我々の道徳にとって重要なのは、そのような第三者的な視点による責任帰属だけでない。

例えば、操作不可能になった飛行機を操縦するパイロットが、できうる最善のことを尽くして乗客250人中180人の命を救ったとしても、このパイロットは残る70人の命を救えなかったことに責任を感じ、悔やみ続けるだろう。このとき、第三者的な視点では、このパイロットに70人が死んだことの責任がないように思われるが、当事者の視点では、そうではない。そしてもし仮に、パイロットが70人の命を救えなかったことに全く負い目を感じていなかったとしたら、私たちはそのパイロットに何らかの不信感を抱くだろう(そのパイロットの判断は、合理的なものであるにもかかわらず)。

このように責任帰属の必要条件として、コントロール可能性の有無を基準にすることは妥当だと思われるが、実際に我々が生きていくうえでは、自らのコントロールをはるかに超えたものに関しても感じることがあるように思われる。これは極めて不合理なことであるが、だからこそより人間らしいと言えるのではないだろうか。

参考文献

Fischer, J. M. and Ravizza, M. [1998] Responsibility and Control, Cambridge University Press.
壁谷彰慶 [2006]「責任帰属とコントロール―Fischer & Ravizza, Responsibility and Control1 検討 『千葉大学人文社会科学研究科』千葉大学大学院人文社会科学研究科, 13号, 188-198. https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900023262/13kabeya.pdf

村上友一 [2010]「行為者性と道徳的責任―フィッシャーとラヴィツァの責任論」『倫理学年報』59号、203-216.

成田和信 [2004]『責任と自由』, 勁草書房.

Strawson, P. F. [1962] Freedom and Resentment, in his Freedom and Resentment, Methuen, 1974.
瀧川裕英 [2008]「他行為可能性は責任の必要条件ではない」『大阪市立大学法学雑誌』, 55巻1号, 31-57.

*1:この特徴付けは、成田(2004)の(R2)「ある人Sは、行為Aを行ったことに関して責任がある=Sは対人関係のネットワークの中に身を置いており、かつ、Aを行ったことを理由にSに何らかの反応的心情を向けることは適切である」(p.33)を参考にしている。ただし、対人関係のネットワークに関する部分は、説明が冗長になるため、今回は省略している。

*2:このメカニズムというのは、基本的には行為者の信念や欲求、意図や意志といったものが行為者の身体運動を引き起こすまでの一連のプロセスを指している。もちろん、この「信念」や「欲求」といった心的態度を、脳の何らかの活動と捉えても問題はない。

*3:仮に、この女性は国を守るスパイであり、仲間のエージェントである老人が煙草を吸うことがテロリストを殺害する合図であるならば、「老人が煙草を吸ったから」という理由で男にナイフで切りかかったことに対し、この女性は責任を負うだろう。しかし、この例は、そうした我々にとって理解可能な理由からこの女性が行為しているわけではないことに注意したい。

*4:このF&Rの基本主張のまとめは、壁谷によるものである(壁谷 2006, p.191)。

*5:このように、行為の帰結を「帰結個別者」と「帰結普遍者」に区別して責任を説明しようとする戦略は、「分割による克服(Divide and Conquer)」と呼ばれる(F&R 1998, p.98)。

*6:この分析は、壁谷(2006)を参考にしている(pp.194-195)

ボールをぶつけたのか、ボールがぶつかったのか

はじめに

前回のブログを更新してから2か月以上経過してしまったが、今日Twitterのタイムラインに上がってきた話題がたまたま自分の修論にも関係しそうなトピックだったため、重い腰をあげて、ブログを書いてみることにした。

その話題とは、とある日本人テニス選手が、プレイとプレイの間にボールを相手コートに返球したところ、そのボールが相手コートの外で待機していたボールガールの頭部に直撃してしまったというものだ。この選手は、ボールガールに謝罪をしたものの、試合自体は危険行為をしたとして失格処分となり、その後自身のTwitterに謝罪のコメントを載せた*1

現在、主に議論されているのは、この失格というのは処分として妥当なものであったかどうかという点ではあるが、本ブログではこの点について触れるつもりはない。

今回私が着目したいのは、この選手が打ったボールがボールガールに当たったことに関しては、多くの人がこの日本人選手に責任があると考えていることである。このことは自明なことのように思われるが、ここから行為と責任に関する興味深い考察を導くことができると考えている。

行為とは何か

意図的行為

そもそも行為とは何だろうか。行為という言葉は日常的にも頻繁に使われるものではあるが、改めてそれが何かと問われると、なかなか答えに窮するだろう。

私自身、この問いに対する満足できる答えは持ち合わせていないが、今回このブログを通して、少しだけ行為に対する理解を深められたらと思っている。

行為とは何かを解明する最初の手がかりとして、ルートウィヒ・ウィトゲンシュタインが提示した次の問いに着目しよう。

私が腕を上げるという事実から、私の腕が上がるという事実を差し引いたとき、何が残るのか?(ウィトゲンシュタイン哲学探究鬼界彰夫訳、2020年、§621)

ここで問われているのは、手を上げるという行為と手が上がるという物理的な事実の違いは何であるかということである。

この問いの答えは様々なものが考えられるが、すぐに思いつく答えとしては、手を上げようという気持ち、手を上げたいという思いなどが考えられるだろう。つまり、手を上げるという行為は、意志や意図などといった心の働きを伴う身体動作であるというのだ。

ここから、行為を次のように定式化することができる。

 

(A)行為とは、意志や意図といった心の働きを伴う身体動作である。*2

 

しかし、意志や意図とはいったいなんなのか。それは身体動作とどのように関わっているのか。実は、この点が行為の哲学の中心的な論点となっている。

まず、基本的な立場であり、現在もなお支持者が多い考え方として、意図が行為を引き起こす原因であるという立場がある(行為の因果説)。つまり、ある人が手を上げたのは、「手を上げよう」という意図をその人が持ったからであるという考え方だ。しかし、心という非物理的なものの状態が、どのようにして身体という物理的なものの原因となるのかが明らかでない。

そのため、意図は行為の原因ではないという立場を取る論者もいる(行為の反因果説)。例えば、ギルバート・ライルは「承知しました」と発話する行為は、特定の状況の下で「承知しました」と言いがちであるという傾向性を持った人が、そうした特定の状況に置かれた際に、「承知しました」と言うことだと考えた。この行為の反因果説において、意図はもはや行為の説明に必要ないとする立場もあるが、現在は意図を、行為は「なぜそのように行為したのか」を説明する理由として捉える立場が主流である*3

何はともあれ、行為には通常意図が伴うとされ、そうした行為を行為の哲学では「意図的行為」と呼ぶ。だが、後に見るように、意図的でない行為も存在する。

行為の再記述と同一性テーゼ

ここで行為に関わる重要な問題を一つ確認していきたい。それは、行為は様々な仕方で再記述が可能であるということに関する問題である。

例えば、ある男は、「腕を動かす」という行為をしているが、それは「ポンプを操作する」という行為や「上水道に水を供給する」という行為、「住民に毒を盛る」という行為としても記述することができる。

問題は、腕を動かし、ポンプを操作し、上水道に水を供給し、住民に毒を盛っている男は4つの行為をしていると言うべきか、それともただ一つの行為をしているべきというべきかどうかというものだ。

仮に、これらが同じ一つの行為だとしよう。だが、ポンプを操作し、水を供給することは意図的だったとしても、それが住民に毒を飲ませることになるとは夢にも思わなかったということはあり得るだろう。すると、同じ一つの行為が異なる記述のもとで意図的であったりなかったりすることになる。このことは少し奇妙なことのようにも思われる。

だが、もし異なる記述が与えられる行為をすべて異なる行為とするならば、行為には無数の再記述の可能性があるため、私たちはある行為をしたときに、同時に無数の行為をしていることにもなる。このこともまた奇妙に思われる。

殺害の時間の問題

上記の行為の同一性に関わる問題として、「殺害の時間の問題」というものがある。それは次のような問題である。

 

ワイスは議員であるロングを殺すために、銃で狙撃した。銃撃は成功したが、駆け付けた警察官によってワイスは即座に射殺された。ロングは銃撃をうけた30時間後に死亡した。このとき、ワイスがロングを殺したのはいつなのか。

 

この問題の答えは、次のいずれかになると通常考えられるだろう。

 

(1)ワイスがロングを殺したのは、(A)ワイスがロングを撃ったとき、あるいは(B)ロングが死亡したときのいずれかである。

 

しかし、(A)も(B)もいずれを選択しても、強い反論がある。

まず、(A)に対する反論は以下の通りである。

 

(2)ワイスがロングを撃ったときに殺したのであれば、ロングは殺されたがまだ生きている期間があった。

(3)ある人が時点tで殺された場合、その人はtの直後には死んでいる。

→このことは矛盾している。

 

また、(B)に対する反論は以下の通りである。

 

(4)ロングが死んだときにワイスがロングを殺したとすれば、死人がロングを殺したことになる。

(5)死人は行動できない。

→このことは矛盾している。

 

この問題を解決するためには、前提(1)~(5)のどこかに間違いがあることを指摘する必要がある。

例として、デイヴィドソンの解答を見てみよう。デイヴィドソンは、行為は身体運動であり、この場合狙撃することと殺害することは同じ一つの行為であると考えている。そのため、この問題は前提(3)を否定することによって解決できると考えた。つまり、「殺害すること」を「死を惹き起こす何かをすること」だと考えればよいというものである。

また、他の解答の例として、ロイ・A・ソレンセン(Sorensen, 1985)の解答も見てみよう*4。彼は、ワイスがロングを殺害するという行為は、ワイスがロングを撃ったという出来事とロングが死亡するという出来事から構成される散在する出来事であると考えた*5。そのため、前提(1)を否定し、ワイスがロングを殺したのは、「1935年」とか「ロングが議員に在任している間」などと答えるほうが適切であると主張する。

私も基本的にソレンセンの見解に賛成し、ワイスがロングを殺害するという行為は、ワイスが銃撃をしてからロングが死ぬまで行われていたと考えるべきだと思っている。だが、他方でワイスの銃撃するという行為と殺害するという行為は同一の行為を異なった仕方で再記述したものに過ぎないと考えている。

すなわち、ある時点tにワイスは銃撃するという行為をし、ある時点t'にロングが死んだとすると、時点tにおいてはワイスの行為は銃撃する行為ではあるが殺害という行為をしたとはいえないが、時点t'になるとワイスの時点tにおける行為を銃撃する行為としても殺害するという行為としても記述することができるようになるというのが私の考えだ*6

責任とは何か

冒頭で「この選手が打ったボールがボールガールに当たったことに関しては、多くの人がこの日本人選手に責任があると考えている」と書いたが、このとき「責任」という言葉で想定しているのは、何らかの法的規範に違反することから問われるような「法的責任」ではなく「道徳的責任」と呼ばれるものである。

それでは、この道徳的責任はどういうときにあると言えるのだろうか。例えば、電車の中で誰かが私の髪を強く引っ張るので振り向いてみるとする。そのとき、髪をひっぱったのが赤ん坊であれば、私はその子に憤ったりしないが、髪をひっぱったのが赤ん坊を負ぶっている母親だとすれば、「なんてことをするのか」と憤慨するだろう。このとき、道徳的責任というものについて考えてみると、赤ん坊が私の髪を引っ張った場合には、その行為の責任が赤ん坊にあるとは思えないが、母親が私の髪を引っ張った場合には、その行為の責任は母親にあると言えるだろう。このことから、憤慨と責任との間には、次のような関係があるように思われる。すなわち、相手がある行為を行ったときに、その行為を理由に相手に憤慨するのは、相手がその行為に関して責任がある場合であり、そうでない場合には、相手に憤慨することはない

このことは、憤慨という心情だけでなく、恨み、軽蔑、責め、感謝、賞賛、尊敬、非難などといった他の心情にも当てはまる。こうした心情は「反応的態度」と呼ばれ、この概念を用いて道徳的責任の概念は次のように定式化される。

 

そして、ある人Sが行為Aを行ったことに関して道徳的責任があるということは、Aを行ったことを理由にSに賞賛や非難といった反応的態度を向けることが適切であるということである。

 

この定式化はかなり不十分なものであるが、今回の議論ではひとまずこの定式化で満足しておくことにしよう*7

ボールをぶつけたのか、ボールがぶつかったのか

さて、長い前置きが終わり、ようやく本題に入ることができる。

もう察しが付いているかもしれないが、ここで問題にしたいのは、冒頭の例に挙げた日本人選手が打ったボールがボールガールに当たったことを、「この日本人選手がボールガールにボールをぶつけた」と記述していいのかどうかというものである。

本人の謝罪文にもあるように、この選手はボールガールにボールを当てようという意図を持ってボールを打ったわけではない。したがって、「この日本人選手が故意にボールガールにボールをぶつけた」と記述するのは誤っているだろう。

それでは、「この選手がボールを打つという行為をした結果、ボールガールにボールが当たった」という記述が正しいのだろうか。確かに、このような記述は正しい記述の一つではあるだろう。ただし、この記述を唯一の正解だとしてしまうと、この日本人選手が行ったのはボールを打つという行為までであり、ボールガールにボールが当たったことは、その行為の望ましくない結果に過ぎないことになってしまう。もちろん、ある望ましくない結果が自らの行為が原因で引き起こされたとき、その結果に対しその人が責任を問われるということはあるだろう。例えば、私が机の上に友人から借りた本を置いた状態で出かけたら、留守番中の犬が本を嚙み散らかしてしまったとき、私には机の上に不用意に本を置いた責任を問われるだろう。だが、このとき本を破いたのは私がしたことではない

他方、ボールガールにボールが当たったことは、やはりこの選手のしたことではないだろうか。したがって、「この選手はボールガールにボールをぶつけた」と記述することは適切であると私は主張したい。

そして、「ボールを打つ」という行為と「ボールをぶつける」という行為の関係は、上述した「殺害の時間の問題」における、射撃と殺害の関係に相当する。すなわち、この選手が時刻tにおいてボールを打ち、時刻t'においてボールがボールガールに当たったとすると、時刻tにおいてはこの選手がした行為はボールを打つという行為ではあるがボールをぶつけたという行為ではないが、時刻t'になると、ボールを打つという行為としてもボールをぶつけるという行為としても記述することができる。ただし、再度述べておくが、この選手のボールを打つという行為は意図的行為であるが、ボールをぶつけるという行為は非意図的な行為である。しかし、その二つは同一の行為の異なる記述である。

そして、この日本人選手がボールをぶつけるという行為をしたことはそれが非意図的なものであったとしても非難に値するものであると多くの人が考えているが、そのように、この日本人選手のボールをぶつけるという行為に関して、非難という反応的態度を向けることが適切であるならば、この日本人選手はボールをぶつけるという行為に関して道徳的責任があると言えるだろう*8

おわりに

行為と責任について考えていたところ、Twitterで今回取り上げた話題が目に入ったため、衝動的にブログを書いてしまった。今回は、読みやすいブログにするために、複雑な哲学的な議論をほとんど無視して、私の立場を述べてしまっている。しかし、当然ながら、ここで省かれている複雑で厄介な哲学的な議論こそ、私が逃げずに向き合わなければならない課題だろう。

また、今回のトピックは、「行為と責任」だけでなく、「人格と責任」という角度からも議論が可能であると考えているが、この点についてはまた機会があれば改めて論じることにしたい。

参考文献

柏端達也(1997)『行為と出来事の存在論勁草書房

Sorensen, R., 1985, "Self-Deception and Scattered Events," Mind 94, 64-69.

成田和信(2004)『責任と自由』勁草書房

古田徹也(2013)『それは私がしたことなのか』新曜社

 

 

*1:

加藤未唯、全仏OPの賞金とポイント没収に 複3回戦で危険行為により失格処分<女子テニス>(tennis365.net) - Yahoo!ニュース

*2:ここで身体動作を伴わない行為もあるのではないかという指摘をしたくなるかもしれない。例えば、頭の中で計算するといったことは身体動作を伴わないが行為と言ってしまって良いようにも思われる。だが、こうした身体動作を伴わない行為があり得るか否かという問題は今回は脇に置いておくことにする。

*3:このように、意図を行為の理由と見なす考え方は、G・E・M・アンスコムが最初に提出した。また、この意図を行為の理由と見なす考え方は、行為の因果説の立場に立つ論者にも基本的に受け入れられている。例えば、行為の因果説の代表的論者であるドナルド・デイヴィドソンは、意図は行為の原因でもあり理由でもあると主張している

*4:ここでソレンセンを取り上げたのは、私が自己欺瞞に関する先行研究を探していたときに、ソレンセンが自己欺瞞のパラドクスを解決するための提案をする文脈で「殺人の時間の問題」に言及していたからである。

*5:ここでいきなり行為を出来事と見なすという考え方が導入されている。なぜ行為を出来事とみなすべきかについては、柏端(1997)を参照されたい。

*6:だが、この点については要検討である。

*7:この定式化をより完全なものとするためには、少なくとも「適切」の意味を限定する必要がある。また、そもそも行為の主体Sが、精神疾患を抱える人や赤ん坊ではなく責任を負うことができる主体であるというのも条件に含めるべきだろう。またここでは「責任とは何か」についての定式化しか行われておらず、「責任がある」と言えるための条件については何も言っていないことにも注意すべきである。この「責任がある」と言えるための条件については、また機会を改めて紹介できたらと思う

*8:ここで私は、この日本人選手を非難することが適切であるなどという主張をしたいわけではない。

VRChat初心者案内メモ(2023/04/03)

 

はじめに

私は自分がVRChatを始めて最初に訪れた「[JP]Tutorial world」(以下、JPT)での出来事を鮮明に覚えている。人と交流したくてVRChatを始めたけど、見ず知らずの人に話かけるのは怖いと思って、人を避けるようにJPTの広場で立ち尽くしていた私に、とあるユーザーが声をかけてくれ、その場にいた他のユーザーに初心者案内をお願いしてくれた。そしてその初心者案内の中で多くの優しい人と出会い、様々なワールドを巡ったことで、VRChatを心の底から楽しいと思えたからこそ、今もこうしてVRChatを続けることができている。

だが、他方で、JPTで荒らしに嫌がらせされたり、出会い厨に遭遇したりして、せっかくVRChatを始めたのに、嫌な思いをしてやめてしまった人の話を聞くことがある。

そこで、こうした悲しい出来事を少しでも減らすために、今度は自分が初心者案内をしようと思うようになった。

今回の記事では、私が初心者案内をするときに心掛けていることや工夫していることを共有しようと思う。このメモのやり方が正しいわけでもないし、私も今後ブラッシュアップしていくつもりであるが、もし今初心者案内をしている方やこれからしてみたいと思う方の何かの参考になれば幸いである。

まずは声掛け

まず、JPTを巡回し、ワールドの壁を一生懸命読んでいるvisitorかnew userがいたら声をかけてみる。声のかけ方は以下のようにしている。

こんばんは~!初めましてdaredemonaiと申します。お名前の呼び方は〇〇さんで間違いないでしょうか?もしかして、始めたばかりの方かな、と思って声をかけたのですが、ご迷惑ではなかったですか?

言い方や内容は色々あるが、柔らかく丁寧に接していればとりあえず問題ないだろう。このとき、ボイスチャットによる返事がなくとも、ボイスチャットが使えるかどうかを確認した方がいい。もし相手がボイスチャットを使いたいのに声が入らない場合は、ミュートになっているか、マイクの入力デバイスに違うものが選択されている可能性が高いので、そのあたりを確認しよう。ボイスチャットを使わない方であれば、チャットの使い方を教えると良いだろう。

なお、声をかけても無視されたり、怖がって他のワールドに移動されたりすることもあるが、見ず知らずの人に話かけられるのは普通に怖いことだと思うので、あまり気にしないほうがいい。

また、声掛けについてだが、既に他の人が声掛けしていたり案内しているときには、無理に声をかける必要はないだろう。そこで私はJPTを巡回するとき、人数の少ないインスタンスから攻めている。これは、人数の少ないインスタンスのほうが、誰にも声をかけられずポツンと放置されているvisitorさんが多いからである。

案内開始

初心者だと分かったらいきなり案内開始...とはならない。初心者さんによっては一人でじっくり説明を読みたい人やすでに誰かに案内をされていて、JPTに来たのは操作の確認のためだったりするからだ。

そこで、案内をする前に、案内が必要かどうかの確認は必ず取るようにしよう。ただし、自分で説明を読みたいという方であっても、最初のsettingsだけは一緒に確認してもいいかもしれない。

また、案内をしてほしいと言ってくれる方も、翌朝にお仕事があったり、別の予定が入っていたりした場合、案内する時間がそんなに取れないことがある。その場合、案内にどれくらいの時間がかかるかを伝えたうえで、説明の途中で抜けて貰って構わないことを伝えておこう

私の場合、以下のように説明することが多い。

この[JP]Tutorial worldはご覧の通り、壁にVRChatの操作方法が細かく説明されているのですが、ご自身のペースでゆっくりご覧になりたいですか?それとも、私でよければ、要点だけかいつまんで説明することもできますが、どちらが良いですかね?

(案内を希望する場合)

では、今からご説明しようと思うのですが、要点だけでも丁寧に説明すると45分から60分くらいかかります。最低限のことだけであれば30分くらいに短縮できますが、どちらがいいですか?

(時間は大丈夫と言われた場合)

それでは、丁寧に説明しますが、途中で疲れてきたり、VR酔いしたり、他のことがしたくなったらいつでも遠慮なく言ってください。

あと、途中で回線の問題で何も言わずに私がいなくなったりすることがあるかもしれませんが、そのときはすぐに入り直すので、その場で待機して貰えれば大丈夫です。

では、案内を始めます。あ、案内のなかで分からないこととか聞きたいことがあれば遠慮なく聞いてください!

なお、Quest単機で遊んでる方は、充電切れにならないよう、できれば充電器を差しながらプレイして貰うようにお願いしよう。環境的に無理そうであれば、充電が持つ限りで説明すれば問題ない。

Settings

Settingsの説明は、以下のような手順で行っている。

・メニューを開いてもらう(JPTに来れている時点でメニューは開けるようになっているはず)。この小さい正方形のメニューのことをLaunch Padと呼ぶことを覚えてもらう。

・右下の歯車の画面からSettingsを呼び出し、Settings画面右上の電源マークの横の四角に斜めの矢印が出ている拡張マークを押してもらう(ちなみに、歯車を二回押しでも詳細設定の画面は呼び出せる)。

・大きな画面が出てきたら、まずPCユーザーの場合、左側のタブのAudio & VoiceからMic BehaviorのToggle Micにチェックを入れる。これでVキーを押すごとにミュートのon/offが切り替えられるようになる。

・左側のタブのComfort & Safetyから、Personal Spaceのチェックを外し、Allow Untrusted URLsにチェックを入れてもらう。自分はShow Community Labsのチェックも入れて貰っているが、やらなくてもいい。

・また左側のタブからAccessibilityを選択し、chatboxのLocal Chatbox Visibilityを一番左のeveryoneにすることをおすすめしている。

・他にもいろいろな設定があるが、あとはお好みでという感じなので、時間のあるときに自分で壁を読んでもらうように伝える。

フレンド申請

次にフレンド申請の仕方について説明する。

ここでは、実際に自分にフレンド申請を送ってもらう。また、3人以上いる場合は、他の人からフレンド申請を受け取ったときの通知の見方を確認する。二人だけの場合、最初のフレンド申請は拒否して、自分からフレンド申請を送り直すのもアリ。

ここで重要なのは、フレンド申請は気軽に送っていいが、変な人とはフレンドにならないほうがいいと伝えること。例えば次のように説明している。

このフレンド申請ですが、気軽に送ってもらって大丈夫です。ただし、変な人とフレンドになることはやめておいたほうがいいと思います。というのも変な人とフレンドになった場合、自分が他のフレンドと遊んでいるときに、その変なフレンドが入ってこれるようになるので、自分のフレンドさんに嫌な思いをさせることになりかねないからです。なので、少なくともフレンド申請を送るのは、少し話して「この人いい人そうだな」、「この人と仲良くなりたいな」と思った人に限定したほうがいいです。

実際、僕とかたまにフレンド申請が来ても、「すみません、まだあなたのことをよく知らないので、また次会ってお互いのことを理解してからフレンドになりましょう」とか言って断っています。

こんな感じで、フレンドになりたくない人とはフレンドにならなくても全然大丈夫です。

Social

Socialの説明は、以下の手順でやる。

・Socialで説明するのは、フレンドになった人と遊ぶ方法であると伝える。

・Launch Padを開いてSocialを開いてもらう。左側のタブのOnline Friendsを開くと、現在VRChat上でオンラインになっている人が一覧表示される。Friend Locationsを開くと、現在VRChat上でオンラインになっている人がどのワールドにいるのかが一覧表示されると伝える。

・オンラインになっているフレンドを選択して、Joinを押すとそのフレンドの元に自分が移動し、Send Inviteを押すと相手に自分のワールドに来てもらうことができると説明する。Send Inviteは、相手に拒否権があることを説明し、相手が来れなくても気にしなくていいと伝える。

・JoinとInviteの説明をした後、Statusの説明をする。Socialの左上に緑色の丸とOnlineと書かれてある部分を押してもらう。そのあとの説明は以下のようにやっている。

Statusを押すと、目の前に上から青、緑、オレンジ、赤の丸が出て来ると思います。これらは、簡単に言えば、VRChatにおける遊びたい度を表わしています。青は「めっちゃ遊びたい!誰でもウェルカム」で、緑は「通常状態。普通にフレンドさんと遊んだりお話したい」という状態です。この二つの状態にしているときは、フレンドから自分がどのワールドにいるのかが確認できます。ただし、その下のオレンジと赤にした場合、自分がどのワールドにいるのかフレンドにも見えなくなります。ただし、オレンジの人には「Request Invite」というのを送れば、相手に自分が遊びたいと思っていることを伝えることができます。赤の場合は、そうした通知も届かなくなります。なので、遊ぶ人を制限したいときはオレンジ、一人になりたいときや予め約束していた人としか遊べない場合は赤にするなど、使い分けて貰えればいいかなと思います。ただ、最初の時期はいろんなフレンドさんと遊んでいったほうがいいと思うので、緑か青にしておくことをおすすめします。

・またSocialの説明の後で、プロフィールの説明もしておく。bioに短くていいから何か書いておくと、話のきっかけになると説明する。LanguagesやLinksも必要があれば、設定することをおすすめする。

アバターの説明

自分のなりたい姿になれるというのはVRChatの醍醐味の一つだと思うので、アバターの説明は結構大事だとは思っている。ただ、説明には時間をかけなくていいと思う。

まず、VRChatにおけるアバターの変更の仕方は大きく3種類あると説明する。一つ目はワールドに設置されているアバターペデスタルに触れることと、もう一つは他の人のアバターをコピーして使うことである。

→ここで、適当なパブリックのアバターをクローンしてもらう。自分はラスクちゃんのサンプルアバターを使うことが多いが、その際は念のため女の子のアバターを着ることに抵抗がないか聞いたうえで、クローンしてもらっている。

アバターをクローンしたあとに、Favoriteの仕方を教える。

・その後、最後のアバターの入手方法として、boothなどで購入したアバターをUnityというソフトを使ってアップロードする方法があることを教える。実際に、自分でアップロードしたアバターがある場合、それを見せるのが早いだろう。Questユーザーの場合は、ここでShow Avatarの仕方を説明する。

・最後にアバタークローンの注意点として、本来Boothで購入した人しか使えないアバターが使えるようになっていたり、マンガやアニメの版権キャラクターなどが出回っていたりするが、そうしたアバターは使わないほうがいいと説明する。ただし、必要以上に怖がる必要はなく、アバターをクローンする前に、アバター使用者に「そのアバタークローンしてもいいですか?」と一声かければ大丈夫だとフォローを入れておく。

グローバルとローカル

グローバルとローカルの説明は簡単でよいが、一応全部説明した場合の説明手順を以下に書く。

・白い箱と青い箱の真ん中に立ち、白い箱を持ちあげたときには初心者さんにもそれが見えているが、青い箱を持ちあげたときにはそれが反映されていないことを確認してもらう。このように、全員に反映される設定がグローバルで、自分にしか反映されないのがローカルであるという。

・時間があれば、横にあるローカルのミラーを出してもらい、そのミラーが自分にしか見えてないことを説明する。ミラーがローカルであるメリットは、ミラーは多くのアバターが映り込むと重たくなるが、重たいと思って自分がミラーを消したとき、グローバルの設定だったら、他のユーザーのミラーまで消えてしまうと言えば大体伝わる。

ワールド

ワールドの説明は細かいところを挙げればキリがないので、使える時間に応じて適宜省略する。そのあとワールド巡りをするのであれば、そのときに必要に応じて説明をしてもいいと思う。

なんなら、今この記事を書きながら、ワールドの説明は他の説明が全部終わった後に回してもいいのかな、とも思い始めた。

一応これまで自分がやってきた説明の流れを説明する。

・Launch PadからWorldsを選択。まずは、左上のCurrent Worldを選択して貰う。そこには現在自分たちがいるワールドの詳細情報が載っていると説明する。

・ワールドの詳細情報の画面で最初に見るのは、「#00000-Public」の部分。VRChatでは、同じワールドであっても同時に複数の部屋(インスタンス)が建っていることがあると説明し、この「#00000」は部屋番号、「Public」は部屋の種類だと説明する。そして、ワールドの詳細画面の右側にある「Instances」に異なるインスタンスが表示されることを説明する。同じワールドでも、インスタンスが異なれば中にいる人は違うため、フレンドと待ち合わせるときは注意が必要であると説明する。

・また、ワールドの詳細情報のActionsにある、「Add To Favoorites」をすれば、アバターと同じようにワールドをお気に入り登録することができると説明する。さらに、New Instanceを押せば、自分で新しい部屋(インスタンス)を建てることができると説明する。

→このインスタンスの種類については大きく3種類に分けて説明する。まず、「Public」は誰でも出入りができるインスタンスで、「Friends+」や「Friends」はフレンドであれば自由に出入りできるインスタンス、「Invite+」や「Invite」は自分が招待した人しか出入りできないインスタンスだと説明する。また、「Invite+」とか「Invite」でインスタンスを開くと、他のフレンドから自分がどのワールドにいるのかが表示されないと説明する。

→最初は、交友関係を広げるために「Friend+」で開くことをおすすめする。

・Worldsの画面に戻って、My Worldのタブを開いてもらい、お気に入り登録したワールドがどこに表示されるのかや、「Recentrly Visited」で自分が直近で訪れたワールドの履歴が見れることを説明する。

荒らし対策

・VRChatの世界にも荒らし行為をする人がいるので、そういう人に出会ったときの対処法を説明する。

・まず巨大なアバターで視界を塞ぐ人や、グロテスクな見た目をしているアバターに遭遇し、嫌だなぁと思ったとき、そのアバターを非表示にして、無害化できると説明する。やり方は、フレンド申請を送ったときと同じ要領で、対象を選択し、Avatar Displayの目に斜線が入っているアイコンを押せばいいと説明する。

・次にうるさい人や暴言を吐いてくる人に対する対処法として、対象の音声をミュートにする方法があると伝える。しかし、ミュートにすると、自分がミュートにしていることが相手に伝わってしまうため、音量を下げるほうがいいと説明する。この方法を使えば、音量を最大150%まで上げることができるので、声が小さい人に対して有効であることも伝える。

(ここまでの説明は実際にその場でやってもらってもいいが、次のユーザーのブロックについては説明を聞くだけにしてもらう。)

アバターをブロックする方法もあるが、互いに声も姿も見えなくなるので、一度ブロックしてしまうと、関係の修復が難しいことを伝える

→パブリックにいる見ず知らずの人使うのは構わないけど、フレンドやフレンドのフレンドに対して、気軽にブロックすることはあまりおすすめしない。

・Safe Modeについては、自分のフレンド以外の声とアバターを非表示にする機能であることを説明する。起動の仕方と解除の仕方を説明する。人数が多いインスタンスで、軽量化するために使うこともできると説明する。

・これまで色々荒らしの対処法について説明してきたが、一番の荒らし対策は、荒らしに出会ったら速やかにその場を離れることであると説明する

Safety

・Shield Levelは初期設定のNormalでOKなので、とくに触れる必要はない(時間に余裕があるときに念のため確認するくらい?)。

・ユーザーランクの説明は、軽くでいい。ユーザーランクとはVRChatをどれくらい遊んでいるかの指標で、プレイ時間が増えたり、フレンドを増やしたり、沢山のワールドを訪れればランクアップすると説明する。

アバターをアップロードしたい場合は、New userにランクアップしなければならないことを説明する。このとき、アカウント名の末尾に4桁の英数字が割り振られている人は、steamのアカウントでVRChatを遊んでいるが、それだとユーザーランクが上がりにくいことを説明する。もしアバターのアップロードに興味があるなら、アカウントの統合をおすすめする(手順については自分で調べてもらう)。

・他の人のユーザーランクの確認の仕方は、メニューを開いた状態でユーザーネームの上を見ればいいと伝える。

おすすめワールド

・時間のあるときに行ってみるように伝える。クエストとびらやウシオポート、Avatar Museumなどは、時間があれば一緒に行ってあげてもいいかも。

カメラ

・相手がVRであれば一番難しいパートであることを伝える。

・デスクトップの場合、F12でスクショを撮ることもできると伝える。

・まず、メニューからカメラを出してもらう。VRの場合、片手で持って人差し指のトリガーを押せばシャッターを押せることを知ってもらう。

・他のカメラの操作は、手に持っている方とは逆の手から出ている青いビームを当てて操作することを伝える。このビームを出すためにいくつかコツがある。

①カメラを持っている手とビームを出す手は距離を離したほうがいい。

②カメラの枠の外で、ビームを出す手のトリガーを引き、再びカメラに手を戻すと、ビームが出るようになる。

③カメラを持ちながら、カメラを持っている方の手でメニューを出し、そのメニュー越しにカメラにビームが当たるようにした状態で、メニューだけ閉じるとカメラにビームが残る。

ただし、最初はコツを伝えても上手くいかないのが普通なので、操作できるまでゆっくり待ってあげよう

・教える操作は、内カメと外カメの切り替え、「Anchor」の「ワールド固定」と「Default」、5秒タイマーくらいでいい。ワールド固定は、三脚でカメラを固定するイメージと言えば伝わりやすい。

写真撮影

・カメラの操作が分かったら、いよいよ写真撮影。案内した初心者を真ん中にして写真を撮ってもらう。

・撮った写真は、PCVR、デスクトップであれば「ピクチャ」に自動でフォルダが出来ていること、Quest単機であれば、スマホのアプリをインストールし、同期させることでスマホに写真を取り込めることを説明する。

・撮影スタジオの入り口に戻り、「#VRChat始めました」で撮った写真とともにTwitterでツイートすると、2桁、3桁いいねが来ると説明する。このとき、VRChat用のTwitterアカウントを作っておくと、VRChatで出会った人と交流できるメリットがあると説明する。ただし、Twitterを作ることも、「#VRChat始めました」で呟くことも、任意なので、やらなくてもいいことは忘れずに伝える。

・最後に全体を通して分からないところや気になることがないか確認して終了。

案内終了

・案内が一段落したら、この後時間があるかどうか聞く。時間がない場合は、ログアウトの仕方を教えてお別れする。

・時間がある場合は、いくつかおすすめのワールドを紹介する。

・私は、クエストトビラ→(Avatar Museum)→綺麗なワールド→遊べるワールド→楽しいワールドの順番でワールド巡りすることが多い。初心者さんがVRであれば、VRならではの体験ができるワールドが良さそう。

・クエストトビラでは、おすすめの集会場とAvatar Museumの紹介をする。また、イベントカレンダーの紹介と、イベントへの参加方法も説明する。

初心者案内の心構え

・最後に、私が初心者案内をする際に心掛けている点をいくつか述べる。これらは単に私が気をつけていることでもあるので、他の人も必ずしも守るべきだと思っているわけではない。

・まず、初心者案内の目的は、VRChatを始めたばかりの初心者さんに「VRChatって楽しいな」と思って貰うことなので、説明をすることが目的ではないということ。初心者さんが退屈しているのに、無理に最後まで説明を聞いてもらう必要はないし、場合によっては説明を切り上げてワールド巡りを先にしてしまってもいい。

・また、「説明するのは自分じゃなくてもいい」というのも大事だと思う。他の人がやってくれるなら他の人に任せてしまえばいい。

案内中は、初心者さんを最優先にすること。また途中で他の初心者さんが来たとしても、原則最初に案内していた初心者を優先すること。

・初心者さんが説明をすぐに呑み込めなかったり、同じことを何回聞いてきたりしても、焦ったりいらいらしないこと。初心者案内をする人が初心者さんに悪印象を与えてしまえば、初心者さんは二度とVRChatをしたいとは思わないだろう。

・変な人が絡んできた場合は、毅然と対応すること。初心者さんを守ろう。場合によっては、「Friends+」でインスタンスを建て直してもいい。

・初心者さんが、自分や他のユーザーに迷惑行為をしてしまったときは、やんわり注意しよう。VRChatはゲームではあるが、相手に生身の人間がいることを説明すれば、迷惑行為を控えてくれるはず。改善されない場合は、強めに注意してもいい。

・VRChatのネガティブな側面はあまり触れない。どちらかといえば、VRChatの楽しい部分を知ってもらえるようにする。

・初心者案内をした初心者さんが、今後もVRChatを続けるとは限らない。この辺はVRChatが肌に合う合わないの問題なので、気にしないこと。

・初心者案内した人に対して、自分からあまり会いにいかないようにすること。特に、自分が初心者を囲い込んでしまわないように注意すること。ただし、向こうからはいつでもJoinしていいよと伝えておく。

和辻の行為論とVRChat

はじめに

 自身の専門である行為論とは別の行為の説明として、和辻の行為論があると聞いたので、天神のジュンク堂が移転する前のセールで買った中古の和辻の『倫理学』を引っ張り出してとりあえず「第二章」まで読んでみたところ、そこで展開されている議論がなかなか面白かったので、こうしてブログの形で共有したい。

和辻の『倫理学』とはどういう本?

 倫理学者であり、文化史家である和辻哲郎(1889-1960)によって書かれた本で、元々は上中下の三巻本であり、1937年に上巻、1942年に中巻、1949年に下巻が刊行された。

 『倫理学』の目次は以下の通りである。

序論
 第一節    人間の学としての倫理学の意義
 第二節    人間の学としての倫理学の方法
本論
第一章    人間存在の根本構造
 第一節    出発点としての日常的事実
 第二節    人間存在における個人的契機
 第三節    人間存在における全体的契機
 第四節    人間存在の否定的構造
 第五節    人間存在の根本理法(倫理学の根本原理)
第二章    人間存在の空間的・時間的構造
 第一節    私的存在と公共的存在
 第二節    人間存在の空間性
 第三節    人間存在の時間性
 第四節    空間性時間性の相即
 第五節    人間の行為
 第六節    信頼と真実
 第七節    人間の善悪 罪責と良心
第三章    人倫的組織
 第一節    公共性の欠如態としての私的存在
 第二節    家族
 第三節    親族
 第四節    地縁共同体(隣人共同体より郷土共同体へ)
 第五節    経済的組織(付 打算社会の問題)
 第六節    文化共同体(友人共同体より民族へ)
 第七節    国家
第四章    人間存在の歴史的風土構造
 第一節    人間存在の歴史性
 第二節    人間存在の風土性
 第三節    歴史性風土性の相即(国民的存在)
 第四節    世界史における諸国民の業績
 第五節    国民的当為の問題

 内容上の大まかな区分は以下の通りである。

序論:倫理学が採るべき問題設定と⽅法論
第⼀章:存在論
第⼆章:⾏為論
第三・四章:共同体論および歴史哲学

 今回のブログでは、第二章の「行為論」に関する議論を中心に見ていく。「第二章」は第一章で明らかとなった「人間存在の根本構造」に基づいた日常的行為の分析が行われている。したがって、本来は第一章の議論を先に見てから行為論に入っていく方が良いだろうが、一度その構成で書こうとしたところ、文章が長くなりすぎたため、出発点を日常的な行為に置き、そこから和辻の議論を遡るように確認していくことにしたい。

行為とは何か

 和辻の行為論を掴む糸口として、序論に付けられていた和辻の注釈を最初に見ておこう。

 行為と言わるるものの本来の意義は、この主体的な、従って対象的たり得ない者の間の相互連関に存する。在来はこの人格的連関を無視して、人と自然との関係においてのみ行為を見ようとした。そこで行為は(1)明らかな目的観念あるいは動機を有し、(2)思慮、選択、決心を経て、(3)それを自覚的に実現せんとする、(4)人の身体運動だと言われた。しかし、それだけならばただ人の活動であって、必ずしも人格的動作あるいは人の「行い」とはならぬ。たとえば広い河原とか海岸とかで、ある目標を目がけて石を投げる場合など。ところで同じ動作を学校内で窓ガラスを目がけてやれば行為になる。なぜか。ここでは目的観念が他の人格あるいは団体との連関を含んで来る。思慮、選択、決心などが右の連関における己れの態度決定を意味する。すなわち目的観念、思慮、選択、決定などが主体的な相互連関の上で動いている。そこに「行い」としての意義が生じてくるのである。*1

 この注釈で和辻が言おうとしていることは何なのだろうか。

 まず、行為の本来の意味は、主体的で、対象であることができない者の間の相互連関であると言われている。ここで対象であるというのは、客観的対象、すなわち「物」を意味する。しかし、人間という存在は、客観的な対象である「物」とは異なり、主体的に働きかけることのできる「者」である。この「者」同士の関わり合いを、和辻は行為の本来の意味だと捉えているのだ。

 しかし、従来の哲学においては、行為を主体的な人間同士の関わり合いとして捉えず、孤立した人が客観的な「物」を対象とした身体活動を行うことであると見なした。こうして行為は、個人の意志によって引き起こされる身体運動として理解されてきた。補足しておくと、このような行為の理解は、現代の哲学においても主流な考え方である。

 しかし、主体的な人間同士の関わり合い(人格的連関)を無視したものは、それが個人の意志によって引き起こされた身体運動であるとしても、単なる活動(あるいは動作)に過ぎず、行為ではないという。

 それでは行為とは何であるか。和辻によれば、目的観念、思慮、選択、決定などが主体的な相互連関(他の人格あるいは団体との連関)の上で動いているところに「行い」としての意義が生じてくるという。

 それでは、以上のことを具体例を見ながら確認していこう。

 例えば、現代の行為論の標準的な行為の説明に以下のようなものがある。

目の前に食べ物があるという信念と食べ物を食べたいという欲求から、目の前の食べ物を食べようという意図が生じ、そのような意図が食べ物を食べるという行為を引き起こす。

 しかし、和辻はこれは物を食べる動作であっても行為ではないという。しかし、我々の日常の食事は、何らかの作法に従ったものであって、単に動作であることはできない。そして、その作法は我々自身の恣意を超えて社会的に定まったものである。また、もし意識的に箸で食べるべきものを手づかみにするとすれば、それは他の主体に対する何らかの態度の表示にほかならないだろう。たとえば、客として招かれた食事の席でやるなら主人に対する侮辱の表示となるし、友人との会食であればネタとして場をにぎわせるものにもなるだろう。このように食事を行為とするものは人間関係であって物との意志的関係ではないというのが和辻の主張である*2

 そして、このような人間同士の相互連関を和辻は人間存在の空間性と呼ぶ。このような空間性は、物理的な空間とは異なる、主体的なひろがりを意味する。

人間存在の空間性

 それでは人間存在の空間性とは何なのか。以下ではこのことについて簡単に見て行こう。

 まず和辻は「人間」という言葉は、個体的な人を表わすこともあるが、人の間、すなわち「よのなか」「世間」を意味する言葉であったという。したがって、人間とは「世の中」であるとともにその世の中における「人」であるという、対立したものの統一であると考えている*3

 また、「世間」「世の中」に含まれる「間」や「中」という語は、人間関係を言い表している(例:男女の間、夫婦のなか、間を距てる、仲違いをする)。このような人間関係は、空間的な物と物との関係のような客観的な関係ではなく、主体的に相互に関わり合うところの「交わり」「交通」というような、人と人との間の行為的連関である*4

 和辻は、人と人とが連絡する交通や通信といった現象は、「人間がその主体的な存在において、多くの主体に分離しつつしかもそれらの主体の間に結合を作り出そうとしている」ことを表現したものだと考えた。つまり、人間がもともと完全に一つであれば、交通通信によって連絡しようという実践的な動きは生じないが、もし人間が完全に多となって分裂したままであれば、やはり交通通信によって連絡する動きが生じないという理屈である*5

 そして、こうした事実から和辻は以下のように述べる。

本来一である主体が、多なる主体に分裂することを通じて一に還ろうとするがゆえに、主体の間に動きが生じ、従って「人間」の存在が実践的行為的連関として成り立つのである。かく見れば主体的な空間性は畢竟人間存在の根本構造にほかならない。人間を単に人としてでなく個人的・社会的な二重構造を持つものとして把捉したことが、必然にこの主体的なひろがりへ我々を導いて行かざるを得ないのである。*6

 こうして行為を行為として成立させる主体的なひろがりとは、人間存在の根本構造にほかならないことが明らかとなった。

人間存在の時間性

 また、行為は時間的構造も持っている。このことを明らかにするために、「歩行」を例にとって考えてみよう。

 人は職場に出勤するために、あるいは友人を訪ねるために、道を歩いていく。だから「歩行」も交通の一種であり、人間存在の空間的なひろがりを表現するものである*7

 だが和辻によれば、現在の「歩行」は「あらかじめすでに」人間関係によって決定されているという。まず、歩行をするのがなぜかと言うと、未来において何らかの人間関係を成立させるためである。言いかえれば、現在の「歩行」をあらかじめ規定しているのが、可能的な人間関係である。また、働き場所へ出勤し友人を訪ねるということは、一定の労働関係あるいは友人関係が「すでに」存立しているがゆえに可能なのである。したがって、昨日までの間柄は、過ぎ去って消えてしまったのではなく、現前の出勤や訪問において存在し、将に起こるべき今日の関係として現在の歩行を規定していると言える*8

 こうして、「歩行」は主体的な空間性を示すとともに、時間的構造を持つことが明らかとなった。そして、人間存在は主体的にひろがっているが、そのひろがりは、主体的な連絡として、既存の間柄を担いつつ現前の行動において可能的な間柄をめざす、というような構造を持たざるを得ない。このようなことから和辻は、人間存在の時間的構造もまた、人間存在の根本構造にほかならないと言う*9

空間性時間性の相即

 和辻によれば、人間存在の根本構造とは、「人間存在は、何らか共同的なるものから分離し出ることによって個別的となり、個別性を否定して何らかの共同性を実現することによりその本来性に還り行くという不断の運動*10であった。

 これは別の表現を用いると、「自己と他者が合一している状態を本来の状態(自他不二)とし、そこから自己と他者が分離する段階(自他対立)を経て、再び自他不二を実現するもの、すなわち『現前において本に来る』運動」としても言い表すことができるだろう。

 このような人間存在の根本構造は、静的に見られる時、空間性となる。つまり、人間の主体的空間性とは、本来的統一(自他不二)が否定されて自他対立となり、さらに否定されて自他不二的統一となるという否定の運動にほかならない。だからその同じ人間存在の根本構造は、動的に見られる時、時間性となる。現前の自他対立的行動のいて、既有の本来性が、自他不二的に将来される*11

 このように「人間存在の空間性」も「人間の時間性」も、「人間存在の根本構造」の二つの捉え方であって、それぞれ独立したものではないことが明らかとなった。

信頼

 和辻の倫理学にとって「信頼」という概念は非常に重要なものである。

 まず人が救いを期待するのは誰かというと、石や家畜ではなく、他の人々か超人者(神)だけである。後者の超人者とは、その本質から救いの手を差し伸べることが当然であるが、前者は必ずしもそうではない。しかも、人が救いを求めるのは、必ずしも親兄弟や友人に限らず、見ず知らずの他人に対しても行われる*12

 このような信頼は、日常的に見られる。例えば、人は道に迷った時、気軽に見ず知らずの人に道を尋ねる。その人がどんな人で、どのような心構えを持っているかを全然知らない場合でも、その人が自分を欺かず、正しい道を教えてくれると信じている。もちろん、教える人が道に詳しくなくて間違った道を教えることや、意地悪でわざと違う道を教えることもあるだろうが、それは当然期待されるべき親切な態度が欠如している場合に過ぎず、他者に対する一般的な信頼というものを覆すものではない*13

 また、意地悪で嘘を教える人であっても、一般的な信頼が地盤となっているからこそ、嘘によって意地悪をすることが可能なのである。というのも、もし道をきく人がその教わったことを信頼しないのであるならば、いかに嘘を教えても騙しようがないからである*14

 このような信頼の現象は日常に無数に見られるものであり、人間の行為は一般にこのような信頼の上に立っている。そして、信頼の社会的な表現が行為者の持つそれぞれの社会的な「持ち場」である。人が親、会社員、官僚、教師、学生、運転手、農夫、商人、職人等々として行為する時には、あらかじめすでにその持ち場に応じての行為の仕方が期待されているのである*15

 そして、このような信頼は、単に心理的な意味で他を信じるというだけではなく、自他の関係における不定の未来に対してあらかじめ決定的態度を取ることであると和辻は言う*16。これは、先ほど述べた人間存在の根本構造(自他不二の本来性から出て、自他対立の非本来的な状態を経て、再び自他不二の本来性へ帰る運動)を踏まえて言えば、我々の出てきた「本」が我々の行く「先」であり、ここに不定の未来に対してあらかじめ決定的態度を取ることの深い根拠があると考えているのである*17

 以上から和辻は次のように主張する。

人間関係が立っている地盤は空間的時間的なる人間存在の理法であり、従って信頼の根拠である。この根拠の上に人間関係が立つとともに、また信頼も立つのである。だから人間関係は同時に信頼の関係なのであり、人間関係のあるところに同時に信頼が成り立つのである。*18

 しかし、和辻はこのように言ったからといって、不信頼の関係や裏切りの関係がないと主張するわけではない。こうしたものは、信頼の欠如態(本来あるべき信頼が失われている状態)であり、したがって人間存在の理法への背反として、人間存在の最も深い奥底から否定される。ここに、古来「裏切り」が最も憎むべき罪悪として排斥される根拠があると和辻は考えている*19

真実

 和辻は、人間の真実は、個人的存在において見いだされるのではなく、「個人的・社会的なる二重性において、すなわち空間的・時間的に無数の自他へ分裂することを通じて本来の全体性に還帰するところの否定の運動(人間存在の根本構造)」*20において見いだされると考えた。和辻はこのことを繰り返して次のように言う。

人は主体的なる空間・時間において否定的に個人となりまた否定的に人倫的合一を実現する。その時人間の心理が起こるのである。その否定の運動が停滞し帰来の動きが阻止される時、人間の真理は起こらない。そうして真理に反するもの、すなわち、虚偽が代わって現れるのである。*21

真言としての「まこと」

 通常、人間の真実、すなわち「まこと」と言えば、第一に言葉と事実が一致している事態を指しているものと思われている。これが真言としての「まこと」の意義を示すように見える。まことを言い真実を語るというのは、与えられた事実に言葉を合致させることに他ならないというのが、そのような考え方だ*22

 ただ、もしこのような規定が正しいとすると、ある人の認識不足のゆえに嘘として語ったものが偶然事実に一致した場合、この人は真実を語ったことになるが、それは最もらしくない。それでは、もしこの人が嘘を語っているのだとすると、真実と虚偽を決めるのは当人の心構えであって、事実と言葉の合致ではないことになる。ところで、この心構えは、他の人を欺こうとするか否かということであり、このことは真実と虚偽の問題は畢竟対人関係において定まることを意味する*23

 この点を正しく把握すれば、病人に対して病気の真相を隠し偽るのは、病人の幸福への配慮である限り、病人に対する「まこと」であって虚偽ではないと言える*24

真事としての「まこと」

 人間の真実、「まこと」として第二に考えられるのが、言と行との一致不一致である。これが真事としての「まこと」の意義を示すように見える。この考え方は、与えられた言葉に対して行を合致させるのが真実あるいは忠実だり、その不一致が虚偽あるいは不忠実であるという考え方である*25

 与えられた言葉は特に約束として扱われる。だが、約束は単なる言葉ではなく、それは人間関係の表現である。つまり、約束を結んだ人と人とは、いまだ起こらざる未来的関係によってすでにあらかじめ現在の存在を規定するのであって、その限り約束そのものがすでに信頼の行為である。約束に忠実であるのはこの信頼を実現して人間存在の真相を起こらしめることであり、約束に背くのはこの信頼の裏切りである*26

 したがってここでも真実は人間関係によって定まるのであって、この関係から引き離した言と行の一致というようなものではないことが分かる*27

根本悪

 さて、人間存在の根本構造によれば、人間は無数の自他分裂によって対立しつつ、自他不二的に帰来するのであった。和辻によれば、この帰来の運動において真実が起こるとされた。人間存在が人間存在としてある限りは、この否定の運動が全般的に停止する、すなわち真実が起こらないという事態は存在しない*28

 先ほど、信頼という地盤があって初めて嘘をついて意地悪をすることが可能であると言ったが、それと同様に、人間存在において真実が起こらないのは、縦横無尽な行為的連関の局所的、局時的な場面においてしかありえない*29

 和辻は人間存在の根本構造において見られる帰来の運動(否定の運動)を停滞させることを「相互に転換する善と悪とを一面的に固定して悪たらしめるもの」としていたが、それがここでは「虚偽」として明らかにされた。以上より和辻は、「悪の固定すなわち根本悪は、人間存在の真実を起こらしめないことにほかならない」と結論付ける*30

人間の善悪

 真実を起こらしめないことが根本悪であるという命題は、我々にとって善とは何であるかを示してくれる。すなわち、善とは、人間存在の真実が起こること、従って人間の行為が真実にかなうことである*31

 このような考え方は、古来の善悪の観念にも合致する。古い社会においては、行為の仕方は何らかの命令によって規定されており、行為の善悪はそのような命令を基準に判定された。それではこのような命令が権威を持つことができたのはなぜなのだろうか。そこには人間存在の根本原理が君臨していると和辻は言う*32

 権威ある命令の例として、キリスト教十誡と仏教の五戒があるが、ここには「殺すなかれ」「姦淫するなかれ」「盗むなかれ」「偽るなかれ」の四つの命令が共通している。そしてこれらの命令は、現代においても適用性を失わない。このような広汎な一致が存在する理由は、これらの命令が人間の裏切りを禁じるものだからである。先ほど述べたように、人が人に対して持つ信頼は人間存在の根柢をなしている。したがって人殺しはこの根柢からの最も露骨な背反であり人間の信頼への根本的な裏切りである。同様に、姦淫、偸盗、虚偽もそれぞれ信頼に背き真実を起こらしめないがゆえに悪行なのである*33

 だが、このように言うと、善悪の評価は時代や民族によってさまざまではないかという異論が提出されるだろう。例えば、原始社会においては、人身犠牲のように宗教的儀礼として神聖視される殺人行為さえあった。しかし、殺人とは、その本質においては、生物学的な「人」からその「生命」を奪うということではなく、一定の社会においてその成員としての資格を有する者、すなわち信頼関係の上に立っている者からそのあらゆる存在を奪うことである。それゆえ、人身犠牲が真正な儀礼である社会においても、儀礼としてでなく部族員の生命を絶つのは殺人罪である。このように殺人罪を是認し善行とする社会はあり得ず、異なるのはただ殺人罪の成り立つ範囲のみであると言える。そして、その範囲は、ちょうど信頼関係と一致するのである*34

和辻の行為論とVRChat

 さて、長くなったが以上の和辻の議論をVRChatに当てはめるとどうなるだろうか。

フレンド申請

 まず、「フレンド申請を送る」という行為について考えてみよう。

 まず、我々はVRChatにおいて見ず知らずの人に声をかけるところから始める。それは相手が話しかけに応じてくれるという一般的な信頼の上に成り立つ行為である。もちろん、ときには無視されたり、暴言を吐かれたりすることもあるかもしれない。それでも、基本的には相手が好意的に応じてくれることを信頼し、期待し続けているからこそ、話しかけることをやめることはないだろう。

 そして、話し合い、仲良くなった相手に対しては、フレンド申請を送ることが一般的である。これは、過去においてはフレンドでなかった関係であり、未来においてフレンドになるという可能的な関係を目指すがゆえに、現在においてフレンド申請を送るという行為するのである。

 そしてフレンド申請を送るということは、相手を信頼しているという態度の表現であり、また相手ともっと仲良くなりたいという表現でもある。このことからも、フレンド申請を送るという行為が、主体的な相互連関の上に成り立っているがゆえに行為であると言えることが伺えるだろう。

 したがって、ここには、人間存在の時間的・空間的構造が見て取れる。

 また、同時に「フレンド申請を送らない」や「ブロックする」といったこともまた、同様に分析をすれば行為であると言えるだろう。

初心者案内と出会い厨

 噂で聞く程度で実際に目撃したわけではないのだが、チュートリアルワールドで何も知らない初心者さんに対し、出会い厨的な振る舞いをする人がいるらしい。

 初心者案内を受ける初心者の方は、案内してくれる人が色々なことを教えてくれる親切な人だと信頼して着いていく。そのように信頼している初心者に、下心で接近するということは、その信頼を裏切る行為にほかならない。それゆえ、和辻の議論に乗っかって言うのであれば、出会い厨的な振る舞いをすることは、悪であると言えるだろう。

フレンドのフレンド

 フレンドになるということは、互いに単なる見ず知らずの人以上の信頼関係の上に立っていることを示すことである。それゆえ、フレンドのフレンドについても「あの人が信頼しているフレンドなら信頼できるだろう」という一定の信頼を持つことができる。だからこそ、インスタンスを「フレンド+」にすることができると言えるだろう。

 したがって、そのような「フレンドのフレンド」である人間が自分勝手な振る舞いをしたり、暴言やセクハラを吐いたりした場合、そうした信頼を裏切ることになる。

まとめ

 VRChatという特殊な環境にあっても、人間同士の主体的な相互関係の上に成り立っているという人間存在の根本構造は何も変わらない。そのような構造の上に立ってこそ、「フレンド申請を送る」といった行為を始めとして様々な行為が成り立つのである。

 VRChatを始めたきっかけや遊び方は人によってさまざまであると思うが、他者と関わり合いたいという思いは誰もが持っているものだと考える。そして他者と関わるために必要なのは信頼である。だからこそ、そうした信頼を裏切る行為は、悪であり、「すべきでない」と言えるのではないだろうか。

参考文献

和辻哲郎倫理学(一)』、岩波書店、2007年

和辻哲郎倫理学(二)』、岩波書店、2007年

*1:和辻哲郎倫理学(一)』、岩波書店、2007、33頁

*2:同上、356頁

*3:同上、26-28頁

*4:同上、32頁

*5:同上、249頁

*6:同上、249頁

*7:同上、273頁

*8:同上、275頁

*9:同上、280頁

*10:同上、280頁

*11:同上、337頁

*12:和辻哲郎倫理学(二)』、岩波書店、2007年、16頁

*13:同上、17-18頁

*14:同上、18頁

*15:同上、19頁

*16:24頁

*17:同上、25頁

*18:同上、25頁

*19:同上、25頁

*20:同上、26頁

*21:同上、26頁

*22:同上、29頁

*23:同上、29-30頁

*24:同上、30頁

*25:同上、30頁

*26:同上、30-31頁

*27:同上、31頁

*28:同上、40頁

*29:同上、41-42頁

*30:同上、42頁

*31:同上、44頁

*32:同上、50-51頁

*33:同上、51頁

*34:同上、51-54頁

ぽこ堂 一日マスターを終えて

ぽこ堂 一日マスター

1月21日に、VRChat内のぽこ堂で開催された「一日マスター企画」に、一日マスターとして参加させていただきました。

一日マスター企画とは、「特定の専門知識をお持ちの様々な方に一日(2hほど)カウンターに立っていただき、お客さんと専門にまつわる自由な会話を楽しんでいただく試み」*1だそうです。

以前、文系大学院生集会というイベントに参加した際にお話したご縁で、「一日マスターをやってみませんか?」と声をかけていただき、今回のイベントにつながりました。

私が専攻している倫理学は、どちらかというと何をしているのか分からない学問だと思うので、当日人が来るのか心配でしたが、予想をはるかに超えて、50名以上の方がワールドに遊びに来てくださったそうです。

ですが、せっかく大勢の方々に足を運んでいただいたにもかかわらず、私のほうがいただいた質問に的確に答えることができなかったのが、非常に心苦しかったです。

今回は、ぽこ堂で十分に伝えることができなかった倫理学の面白さを文章の形で発信できればと思い、久しぶりにブログを更新してみることにしました。

よろしかったら、ご一読いただけますと幸いです。

※イベント終了後、Twitterでも補足を加えています。こちらのツイートも合わせてごらんいただければと思います。(https://twitter.com/akrasia4771/status/1616845548648267777?s=20&t=ubvctI_rq-xyi9e0NhkZ4g

 

そもそも倫理学ってどういう学問?

私たち人間は、一人で生きているわけではありません。人と人とのかかわりのなかで生きています。この人と人とのかかわりにおいて、私たちが協力し、互いに安心して豊かになっていくためには、「やっていいこと」と「やっちゃいけないこと」を決める必要があります。この「やっていいこと」、「やっちゃいけないこと」を総称して「倫理」と言います。この倫理は、必ずしもみんなで話し合って決めたわけではなく、人と人とが関わり合っていくなかで、自然に生じたものも沢山あります。そうして自然に生まれた倫理を、後から明文化したものもあるでしょう。

この倫理というのは、社会に生きる人であれば、多かれ少なかれ身に付けているはずのものです。皆さんも、人気のラーメン店に入ろうとして、店の前に行列ができていたら並ぶと思いますし、その行列に割り込むことが悪いことだと分かっているはずです。このように、たいていの物事の「やっていいこと」、「やっちゃいけないこと」は、意見が一致しているため、問題になることは少ないです。

しかし、私たちは倫理を完璧に把握できているわけでは決してありません。「私たちが正しいと思っていることは本当に正しいのか?」、「正しいかどうかわからないケースではどうすればいいのか?」といった問題をどのように考えればよいのでしょうか。これらの問いについて、理論的に考えるのが、「倫理学」です。

具体的に倫理学ではどのように考えるの?

倫理学」と一口に言っても、やっている内容は様々です。何が正しくて何が間違っているのかを判断するための理論の体系を整備する人(どういうときに正しいと言えるのかを考える人)もいれば、それらの理論の体系に照らして、具体的な物ごとの正・不正を判定する人もいるし、「そもそも私たちが言っている正しさや善とはどういうものなのだろうか」を考える人もいます。重要なのは、これらの探究をすることで、先ほど挙げた「私たちが正しいと思っていることは本当に正しいのか?」、「正しいかどうかわからないケースではどうすればいいのか?」といった問題に対処できるようにすることが倫理学の目的であるということです。

自殺は善いことなのか?悪いことなのか?

急に刺激の強いトピックを出してしまい、苦手な方には申し訳ないのですが、ぽこ堂で一日マスターをしている際に、この問題について私がどう考えるのかを尋ねられました。改めて、この問題について、ここで少し考えてみようと思います。

まず、「自殺は善いことなのか?悪いことなのか?」という問いについて分析してみましょう。自殺と言っても色々な種類があります。「学校や会社で耐えきれないほどの精神的苦痛を感じ、苦しみから逃れるために自ら命を絶つこと」、「末期がんなどの回復の見込みがない上に苦痛が続く状態から逃れるために、安楽死すること」、「他人のために自らの命を捧げる自己犠牲」等々......。ただし、今回自殺という言葉で意味するのは、一つ目の「精神的苦痛から逃れるために自ら命を絶つこと」に限りたいと思います。

まず、一般的に自殺は悪いことだと考えられている点は説明不要だと思います。ですが、根本から考えることによって、もしかすると、自殺は必ずしも悪いものではないという結論が導かれるかもしれません。

「自殺は善いことである」の論証

例として、「自殺は善いことである」と主張する論証を一つ取り上げてみます。

①人にとって何が最善であるかを最も分かっているのは、その人本人である。

②人は、何が最善であるかを分かっているならば、その選択も常に最善である。

③したがって、自殺が本人の選択の結果であるならば、それはその本人にとって常に最善である。

この論証を聞いて、皆さんはどう思ったでしょうか。こうして言われてみると、まったく理屈がないわけではなさそうですね。実際、①と②が正しければ、③も正しいことになるでしょう。

しかし、これくらいの単純な論証では、穴もたくさんあります。論理自体に矛盾がなくとも、前提がそもそも誤っている場合は、得られた結論を受け入れる必要がなくなります。

まず①について、「何が最善であるかを最も分かっているのは、その人本人である」というのは正しいのでしょうか。たしかに、何が最善かなんて人それぞれであるし、自分の幸福に最も関心を持っているのは自分自身だと言えるかもしれません。しかし、昔やった自分の行いを、後で振り返って後悔するということはよくあることです。

また②についても同様で、人は最善だと分かっていることを必ずしも選択できるわけではありません。例えば、ダイエットしなければならず、そのためには夜にカップラーメンを食べるべきではないと分かっていながら、ついつい食欲に負けてカップラーメンを食べているとき、その選択はその人にとって最善の選択とは言えないでしょう。

このように、単純な論証は簡単に反論されてしまいますが、「自殺は善いことだ」と主張する人も、これで納得するわけではないでしょう。何より、自殺の問題から論点がそれているような気がしますね。これは、最初の「自殺は善いことだ」と主張する論証がどこか不十分であったことを意味するので、反論の余地をなくすべく、理論に修正を加えることが求められます。

「自殺は悪いことである」の論証

また、「自殺が善いことだ」という主張を退けただけでは不十分で、「自殺は悪いことだ」と主張できるのはなぜかも考えてみなければなりません。ここでも論証の例を一つ取り上げましょう。

①人を殺すことは悪いことである。

②自分自身も人である。

③したがって、自分自身を殺す自殺も悪いことである。

これは自殺が悪だと主張する最もシンプルなものです。そして論証も妥当なものになっています。したがって、この結論に納得がいかない人は、①か②が間違っていると考えるしかありません。

①が間違っているという人は、「必ずしも人を殺すことが悪いことだとは限らない」と言うでしょう。たとえば、凶悪殺人犯を処刑することや苦しんでいる人を安楽死させることは悪いことではないと言えるかもしれません。ただし、前者については何も罪を犯していない人を処刑することは悪いことだと考える人は、自殺する人が何が重大な罪を犯したわけでもない限り、自殺が悪いことではないとは言えないでしょう。後者の苦しんでいる人を安楽死させることは悪いことではないと考える人については、自殺も悪いことではないと言う見込みがありそうです。しかし、安楽死の場合はその苦しみが死ぬまで続くことが予想できる状態であるのに対し、自殺は、その苦しみが死ぬまで続くとは限らないという違いがあります。このことが、安楽死は悪くないが、自殺は悪いと言える根拠になるかもしれません。

②が間違っているという人は、自分自身が人であると認めないことになってしまいますが、それはさすがに苦しいでしょう。しかし、①と②を次のように修正すれば、それなりに説得力はありそうです。

①'他人を殺すことは悪いことである。

②'自分自身も他人である。

③したがって、自分自身を殺す自殺も悪いことである。

このように修正したうえで、①'は正しいけど、②'は間違っていると主張するなら、成功する見込みはありそうです。

しかし、①'で他人を殺すことは悪いことであるというのは正しいでしょうが、自分自身を除外する根拠が不明です。もし、自殺を正当化するために、①'の規定に自分自身を除外しているのだとすれば、それは論点先取になってしまいます。この問題を考えるためには、そもそもなぜ人を殺してはならないのかを考えなければならないでしょう。

今回は、なぜ人を殺してはいけないのかという議論にまで踏み込むことはしませんが、以上のような流れで、倫理学では「倫理」を考えています。上の議論は非常に大雑把なもので突っ込みたいところが沢山あったと思います。そうした突っ込みどころは大抵過去のどこかの時点で誰かが考えているので、そうした議論を掘り起こすのが倫理学の学びであり研究であると言えるでしょう。

行為論について

さて、これまで倫理学全般の話をしてきました。が、私の専門は実は倫理学というよりは哲学よりです。

私の専門は、行為論と呼ばれる領域です。行為論とは、行為について哲学的に考える領域で、行為の哲学とも言われます。

行為とは何か

そもそも行為とは何なのでしょうか。この問題を考えるために、「手があがる」と「手をあげる」の違いに着目してみましょう。「手があがる」と「手をあげる」の違いはなんなのかという問いの一般的な答えは、そこに意図があるかないかの違いだというものでしょう。この意図というのは、行為を引き起こす原因であると通常考えられています。すなわち、「手をあげよう」という意図が「手をあげる」という行為を引き起こしたという考え方です*2

また、次のような違いがあるとも言えるでしょう。「手があがる」というのは物理的な現象や動作を記述したものであり、「なぜ手があがるのか」という問いの答えは、「脳のニューロンの発火により......神経を通じて筋肉を収縮するように電気信号が送られ......」みたいなものになると思います。言いかえれば、「なぜ手があがるのか」ということで問われているのは、手があがる「原因」です。他方で、「なぜ手をあげるのか」という問いの答えは、「タクシーを止めようと思って」や「友達に挨拶をしようと思って」といった「理由」になるでしょう。このような行為の理由こそ、行為の「意図」である立場もあります。したがって、意図的行為とは「なぜそうしたのか」という理由が問えるようなものだと言うこともできます。

また、「タクシーを止めるために手をあげよう」という意図を持つ人は、「タクシーを止めたい」という欲求と、「タクシーを止めるために有効な手段が手をあげることである」という信念を持っていたとも言えるでしょう。つまり、意図を持つ人は、それに対応する欲求と信念のセットを持っているということです。なお、信念とはここでは「〇〇だと信じている」ということを意味します。

合理性について

私たちは「あの人は合理的でない」とか「合理的に考えれば、この選択が正しい」とか言いますが、行為論で言われる合理性は少しニュアンスが異なっています。

例えば、傘を手に持っている人が、雨が降っているのに、傘をさしていないとします。この人は不合理な人でしょうか。必ずしもそうとは限りません。もし、その人が傘が壊れていると知っていれば、傘をささないのは合理的です。また、もしわざわざ傘をさす必要がないほど家が近くだとしたら、傘をささないのは合理的です。さらには、雨に濡れたい気分だったとしたら、傘をささなくても不合理ではありません。不合理なのは、雨が降っていると信じており、雨に濡れたくないと思っており、雨に濡れないための最良の手段が手に持っている傘をさすことであり、傘をさすことを妨げる他の事情が一切ないにもかかわらず、傘をさそうとしない場合です。

私たちは、人々が行為するとき、そこには合理的に説明可能な信念や欲求があると考えます。雨の中、傘をささない人がいたら、「なんで?」と思うかもしれませんが、そこには何か理由があるはずだと考えます。そして、「傘が壊れていて使えないんだ」と理由を聞けば、「ああ、そういうことだったのか」と納得します。ですが、「雨には濡れたくないし、傘は使えるんだけど、傘をささない」と言う人がいたとすれば、困惑してしまいます。そして、「本当は雨に濡れたくないと思っていないのではないか」とか「傘をさしたくない他の理由があるんじゃないか」など、その人の行為を合理的に説明する何かを求めます。私たちは、相手が合理的であることを前提にして初めて、相手の行為を解釈することができるのです。もし、常に不合理な振る舞いばかりをする人がいたとしたら、私たちはその人にいかなる信念や欲求も帰属させることができなくなるでしょう。

自己欺瞞と責任

さて、ここからは少し倫理学に話を戻します。

まず、ある人に、その行為の責任が問えるのは、その行為が自由にコントロールできるものであった場合に限るという考えがあります。例えば、車で人を轢いた責任は、通常運転手にあったと考えられますが、もし車のハンドルが急に動かなくなったり、後ろの席の人に脅されてやむを得ず轢いたとしたら、運転手には責任がないという考え方です。

次に、私たちの行為の責任の大きさは、なぜそのような行為をしたのかという行為の理由と、その行為によって引き起こされた結果の重大さによって決まると考えられます。

そのため、人は自分の責任を回避するために、しばしば自分の行為の主張な理由とは異なる理由を、自分の行為の理由だと主張します。

たとえば、人を悪ふざけで押した結果、押された人が転倒して大きな怪我を負ったとき、「つまずいて咄嗟に手をつこうとして押してしまった」とか「たまたま手があたった」などと言って、自分の罪を軽くしようとします。このとき、自分が悪ふざけで押したことを知っていながら、別の理由を自分の行為の本当の理由だというのは、端的に嘘をついているのであり、その嘘をついたことは非難されて然るべきでしょう。

私たちは、監視カメラや複数人の証言から、他人を押した人が、つまずいたわけでも、誰かに押されたわけでもないと判断したとき、他人を押した人は「本当は悪ふざけで人を押したと信じており、したがって、信じているはずのこととは異なることを主張しているのは、嘘をついているからだ」と考えます。実際、相手が合理的であるとすれば、このように解釈することが妥当でしょう。

しかし、もしこの人が自分の行為の主な理由を「つまずいて押してしまった」と本気で信じており、またそれによって「悪ふざけで押した」というもともとの理由とは異なる理由を自分の行為の理由だと主張していたとしたら、それは単に嘘をついていたのと同じように非難しても良いのでしょうか。こうした人は、自分が「悪ふざけで押した」と知っていたはずなのに、それを信じたくないという動機によって、「自分が悪ふざけで押したのではなく、つまづいて押してしまったんだ」と自分で自分を騙している人だとみなすことができます。このような自己欺瞞は、不合理な状態だと言えます*3

人が意図的に自己欺瞞に陥っているとすれば、そこに責任を問う余地はあるかもしれません。しかし、もし自己欺瞞が人のコントロールできるものではなく、不意に陥ってしまうものだとすれば、自己欺瞞によって、もともとの理由とは異なる理由を自分の行為の理由だと主張していたことについては、免責されるかもしれません。

ただ、こうした問題を考えるためには、「自己欺瞞とはどういうものか」、「どのようなメカニズムによって人は自己欺瞞に陥るのか」、「責任を問える条件とはどのようなもので、自己欺瞞の事例はそのような事例に当てはまるのか」といった問いを考える必要があります。

おわりに―徳について

以上で、少しでも倫理学という学問についてイメージを掴めてもらえたでしょうか。ただ、最後に言いたいことは、倫理学という学問を研究することと、日常的に「どうするべきだったんだろう」とか「何が正しいんだろう」と考えることは、それほど隔たっていないということです。

倫理学の研究ということでやっているのは、結局のところ、あるものについて、賛成と反対の意見を聞いて、吟味し、より正しいと思うものを受け入れていく営みです。それは、皆さんも普段の生活で、必ず実践していることだと思います。

私個人の立場ですが、物事の善悪は、状況によってその都度変わるものだと考えています。例えば、嘘をつくことは常に悪いことではなく、人のためにつく嘘などは善い場合があるとも考えています。ただし、このことは、状況に応じて、嘘をつくべきか真実を告げるべきかを正しく判断しなければならないという、より難易度の高いことを要求しています。

こうした、状況を正しく把握し、状況に応じてその都度最善の判断を下し、行為に移すことができる人こそ、徳のある人だと私は思います。私も、最初からそのように徳がある人だったら良かったのですが、残念ながら今のところは、全く適切に判断し、行為できていません。ですが、状況に応じて、その都度、何が最善か、どうするべきかを考えていくことを通じて、どのような状況でも、正しい行為ができる、徳のある人に近づけると考えています。

皆さんも、倫理学の本を読む必要は全然ないと思いますが、どうすればいいのか、何が正しい行為なのか、考えていくことを積み重ねていくことで、徳のある人にきっとなれると思いますよ!!

 

*1:https://twitter.com/poko2021vrc/status/1613121686588784641?s=20&t=ubvctI_rq-xyi9e0NhkZ4g

*2:なお、「意図というものが何なのか(そんなものが本当にあるのか)」、「意図が行為の原因であるという説明は正しいのか」ということは、行為論の最も重要な議論の一つです。

*3:自己欺瞞については以前書いた別のブログ記事を参照 https://daredemonai-dareka.hatenablog.com/entry/2022/10/01/124326

自己欺瞞の哲学入門

はじめに

また最後にブログを更新してから一か月経過してしまった。書きたい話題の候補はいくつかあったのだが、ブログの他にも優先したいことが出来てしまい、結果的にブログの執筆に取りかかるのが遅くなってしまった。

さて、今回のテーマは自己欺瞞の哲学である。これは私が専門としている行為の哲学でときおり話題にあがるテーマであるが、振り返ってみると、日常の多くの場面で自己欺瞞という現象があることに気が付くだろう。

今回の記事では、この自己欺瞞の哲学について、前提知識なしでも分かるような形で紹介していきたい。この記事を読み終えたあとで、自分や他人の心の中で生じる自己欺瞞を見つけてニヤリとして貰えれば幸いである。

自己欺瞞の事例

ある男は、人に優しくすることをモットーに生きており、実際に人に優しく接することができていると信じている。しかし、男の日常的な振る舞いを観察してみると、その男の男性に対する接し方は、女性に対する接し方に比べて非常に素っ気ないことが分かる。

このような男に対し、我々は「お前は女好きだから、女性に対してだけ優しくしているのだ」と非難するかもしれないし、口に出さなくても心のなかでは、この男は下心を抱いて人と接していると判断するかもしれない*1

男自身も、男性と女性に対する自分の振舞い方の違いは、自身の下心に由来することにうすうすは気が付いている。しかし、自分が下心のある人間だと認めることは、「自分は優しい人である」というこの男のセルフイメージを否定することにもなり、なかなか受け入れがたい。

そこで、この男は、「自分が女性に対してだけ優しくしているのは、相手が女性だからではなく、たまたまこれまで出会った男性の多くは、礼儀や態度が悪く、私が優しい接し方をするに値しない人間だったから」など、別の理由をでっちあげて、「自分は優しい人である」というセルフイメージを守ろうとする。

こうして、この男の「自分は優しい人である」というセルフイメージは守られたのであるが、しかし同時に、この男は「自分は本当は下心を抱いて人に接している」ということにも気が付いている。むしろ、「自分が下心を持っている」と気が付いているからこそ、必死に自分が下心を持っていることを否定する理由をでっちあげるのである。

以上の女好きの男の事例を見て、なんとなく自己欺瞞がどのようなものかは理解してもらえたのではないかと思う*2ツンデレや、夫の浮気に気が付かない振りをする妻、意中の人に避けられているにもかかわらず相手は本当は自分のことを好きだと思い込んでいるストーカーなど、自己欺瞞の例は枚挙にいとまがない。

自己欺瞞の哲学的な説明

さて、以下では自己欺瞞を哲学ではどのようなものとして捉えており、自己欺瞞の何が哲学者を惹き付けるのかを見ておこう。

不合理性とは何か

まず、自己欺瞞とは不合理性の一種であると考えられる。不合理性とは、合理的でないという意味である。では、合理的とはどういう意味か。それは、その人が受け入れている原理に従って、物事を考えたり行動したりすることである。

誰もが受け入れている原理の一つに、「帰納的推論のための全体証拠の要請」というものがある。

全体証拠の要請

「われわれが相互に排他的ないくつかの仮説のなかから一つを選ぶとき、手に入るすべての関連する証拠にもっともよく支持されるものを信用することを要求する。」(デイヴィドソン(1986)、邦訳327頁)

たとえば、daredemonaiが男性であるか女性であるかを判断するときに、「野太い声をしている」、「Twitterのプロフィールに男と書いてある」、「仕草が女らしくない」などのdaredemonaiが男であることを支持する証拠も、「ダイエット中に綺麗になりたいという発言をしている」などのdaredemonaiが女であることを支持する証拠もあるが、その全ての証拠に基づけばdaredemonaiが男である可能性のほうが高いと判断できるだろう。そうして、全ての証拠から、より確からしいと判断された仮説を信じることが合理的である。つまり、daredemonaiが男であると信じるのは合理的であり、仮にこうした証拠すべてに背いてdaredemonaiが女であると信じたとすれば、それは合理的でない。

この全体証拠の要請という原理を自分は受け入れていると自覚している人は少ないだろうが、それでもほとんどの場面では、人はみなこの原理に従って思考したり行為したりしているはずである。

だが、冒頭で述べたような自己欺瞞の事例では、この全体証拠の要請に反して、つまり証拠全体が支持する仮説ではない仮説を信じてしまっており、その意味で自己欺瞞は不合理なのである。

自己欺瞞の伝統的な理解

金杉(2012)によると、自己欺瞞は伝統的には次のように理解されてきた。

自己欺瞞の主体は、「P」が偽であることを正当化する証拠をある程度所有していて、それゆえPでないという信念B(¬P)を所有しているにもかかわらず、Pであってほしいという欲求D(P)によって動機づけられて、意図的に自らを欺き、Pという信念B(P)を形成する(そして、それを保持する)。(金杉(2012)、47-48頁)

信念とは、信じていることを意味し、ほとんど「知っていること」と同じような意味で捉えてもらって構わない。欲求は「○○したい」や「○○であってほしい」というものである。

つまりここで言われていることを、非常に簡単に言えば、あることが真実だと信じているけど、それを信じたくないから、真実ではないと分かっていることを自分自身に信じさせようとするのが自己欺瞞である。

自己欺瞞の二つのパラドクス

自己欺瞞の伝統的理解からは、二つのパラドクスが生じる。

一つは、自己欺瞞が成功したとすれば、自己欺瞞者は「Pでない」という信念を持ちながら、それと矛盾する「Pである」という信念を持っていることになるが、そのようなことがいかにして可能なのかという問題である。この信念の問題を「信念のパラドクス」あるいは「静的パラドクス」と言う。

また、自己欺瞞にはもう一つ大きな問題がある。それは、自己欺瞞を他者を騙すこととのアナロジーで捉えた際に問題となる、「意図のパラドクス」あるいは「動的パラドクス」と呼ばれるものである。

通常、人を騙すということが成功するためには、騙す側の意図を騙される側が気が付いていないことが条件である。たとえば、ある男が、ある高齢者に振込詐欺をした際に、騙される側の高齢者が、金銭をだまし取ろうとする男の意図を知っていたとすれば、その高齢者が騙されるということはないだろう。

だが、自己欺瞞の場合、騙す側と騙される側が同じ一人の人間だということになるが、その場合、騙される側が騙す側の意図に気が付かないということはあり得ないことのように思えてくる。しかし、もし騙される側が騙す側の意図に気が付いていたとすれば、通常の場合でそうだったように、自己を騙すという行為が成功することはないだろう。そうすると、自己欺瞞は不可能なものになるはずである。

おわりに

自己欺瞞のパラドクスの話は少し突っ込みすぎた部分はあるが、以上で大まかに自己欺瞞の何が問題となっているかが理解されたと思う。

これまで自己欺瞞というものについて、少しネガティブなニュアンスを持たせすぎたかもしれない。だが、発表前に緊張している人が、「大丈夫、自分の発表はよく出来ている。聞いてくれる人も私に好意的な人ばかりだ」などと自分自身に言い聞かせることによって、無事に緊張せずに発表を成功させるということもあるだろう。

冒頭でも述べたが、自己欺瞞というものは日常的にありふれている。それにもかかわらず、哲学的には説明が非常に難しい。だからこそ、哲学者は自己欺瞞という問題に惹かれるのかもしれない。

参考文献(+読書案内)

浅野光紀(2012)『非合理性の哲学 アクラシアと自己欺瞞新曜社

柏端達也(2007)『自己欺瞞と自己犠牲』勁草書房

柏端達也(2014)「自己欺瞞」(信原幸弘・太田絋史編『シリーズ 新・心の哲学Ⅲ 情動編』勁草書房)、159-195頁

金杉武司(2012)「自己欺瞞のパラドクスと自己概念の多面性」(日本科学哲学会『科学哲学』45巻2号)、47-63頁

ドナルド・デイヴィドソン(1986)(塩野直之訳)「欺瞞と分裂」(金杉ほか訳『合理性の諸問題』春秋社)、323-343頁

もし本ブログを読んで、自己欺瞞の問題に興味を持ってくださった方のために簡単な読書案内も載せておく。

まず最も自己欺瞞の問題についてコンパクトに述べられているのが、柏端達也(2014)である。まずはこの文献を読んでみるのが良いと思う。

自己欺瞞の問題を、基礎からしっかり考えたい人には浅野(2012)もおすすめである。この本は、自己欺瞞の具体的なプロセスについて、自然科学の知見も踏まえて考察しており、なかなか興味深い。

他の文献は少し初学者には難しすぎると個人的には思うのだが、興味を持った方はぜひチャレンジしてみてほしい。

*1:相手の振舞いをみて、その人が考えていることがなぜわかると言えるのかというのも行為の哲学の問題になるが、本ブログではこの問題を棚上げしておこうと思う。

*2:実はこの事例は自己欺瞞の典型例というには複雑すぎる。というのも、明白に矛盾した信念をこの男が持っているかどうかは明らかでないからだ。したがって、哲学的な問題を考えるうえで、このような事例を使うのは適切ではないだろう。だが、哲学的な議論を離れて日常的な実践の場に目を移してみると、このような明確に矛盾する信念がないときこそ人は自己欺瞞に陥りやすいのである。

VRChatにおける「本当」とは何か

はじめに

前回の記事を書いてから一ヶ月があっという間に過ぎてしまった。書くネタがないわけではないのだが、リアルが忙しく、なかなかブログを書く余裕を見つけることができないというのが正直なところである。

ただし、このままだとブログを書く習慣がなくなるようにも思えたので、今回は寝起きの勢いのままに、とりとめのない文章を書いてみたい。したがって、本記事は本格的な考察に入る前の単なるメモ書きのようなものだと考えて貰って差し支えない。

 

VRCにおける「本当の」という言葉の用法

本記事が扱うのは、上記の「リアルが忙しく」という表現にも関係する。ここでの「リアルが忙しく」という表現は、インターネット上、とりわけVRC上の多忙さと区別するために用いられているが、「リアル(本当、現実)」という言葉はVRCにおいて、非常に興味深い用いられ方がなされているように思われる。

 

身体における「本当」

まず、VRC上で「本当の自分」と言ったとき、VRC外の生身の身体を持つ自分を指すこともあれば、Fallbackでないアバターを指すこともある。

私もQuest初心者にshow avatarの仕方を教える際、「今あなたに見えている自分は『本当の』姿ではありません。」などと言ったりする。

心理における「本当」

だが、心理的な側面からすれば、VRC外の自分よりも、VRC上の自分が「本当の自分」だということもある。たとえば、普段はしっかり者として振舞っているが、実は子供っぽい人が、VRCではしゃいでいるとき、「VRC上の自分が本当の自分」ということはあるだろう。

ただ、このとき、どちらが「本当の自分」と言えるのかはなかなかに難しい問題であるようにも思われる。というのも、人間の心理はそもそも一面的には捉えることのできない複雑さを持っているからだ。

PCVRとQuestとの対比における「本当」

また、PCVRユーザーとQuestユーザーで着ている衣装が異なったり、色の見え方が異なったりするとき、PCVRユーザーからすれば、Questユーザーは「本当の自分」が見えていないということになるだろう。

この際の「本当の」という言葉は、PCVRユーザー自身の主観的な基準によって決まっているように思われるが、実はたんなる主観ではない。というのも、同じPCVRユーザー同士なら本当の姿が見えているという想定がここではなされているからだ。厳密に考えてみれば、PCVRユーザーであっても、色の見え方は多少は異なるはずであるし、そもそも他人が色をどう知覚しているのかは知りようがないはずである(自分と他人が「あの色は赤い」と言っているとき、他人は自分だったら赤ではなくピンクと言うような仕方で色を認識しているかもしれない)。それなのに、PCVRユーザーが「本当の姿」というとき、そこには何らかの客観性が前提とされているように思われるのはなぜなのか。

この問題を考えるうえでは、マクダウェルという哲学者の「価値の客観性」の議論が参考になるかもしれない。マクダウェルによれば、「客観的/主観的」という区別は⼆つの次元で考えられ得るという。

次元①:主観から独⽴という意味での「客観的」/主観のあり⽅に相関的という意味での「主観的」

次元②:主観によるまったくの想像という意味での「主観的」/主観の恣意を許容しないという意味での「客観的」

そして、マクダウェルによれば、⾊、匂い、味など、⼈間の感覚器官のあり⽅に依存する感覚的な性質は、人間が恣意的に感じ方を変更することができるものではない以上、前者の次元においては主観的であるが、後者の次元において主観的であるわけではないことになる。

そして、同じ人でもPCVRを使用しているときとQuestを使用しているときでアバターの見え方が異なると考えられるならば、アバターの見え方は単なる主観によるまったくの想像とは異なる(対象による制約がある)という意味で、後者の次元において主観的であるわけではないということになる。だからこそ、リンゴを指さして、「あのリンゴは赤い」と言ったとき程度の客観性を、PCVRユーザーが「本当の姿」と言うときには期待してもよいということになるのだろう。

 

おわりに

このように、VRCにおける「本当」について考えてきたが、最後のほうは思ったよりも複雑な議論になってしまい、正しい議論になっているのかどうか自信がない。冒頭にも述べた通り、今回の記事はメモ書きのようなものなので、それぞれの問題についてはこれからじっくり考えていこうと思う。