VRChatにおける「本当」とは何か

はじめに

前回の記事を書いてから一ヶ月があっという間に過ぎてしまった。書くネタがないわけではないのだが、リアルが忙しく、なかなかブログを書く余裕を見つけることができないというのが正直なところである。

ただし、このままだとブログを書く習慣がなくなるようにも思えたので、今回は寝起きの勢いのままに、とりとめのない文章を書いてみたい。したがって、本記事は本格的な考察に入る前の単なるメモ書きのようなものだと考えて貰って差し支えない。

 

VRCにおける「本当の」という言葉の用法

本記事が扱うのは、上記の「リアルが忙しく」という表現にも関係する。ここでの「リアルが忙しく」という表現は、インターネット上、とりわけVRC上の多忙さと区別するために用いられているが、「リアル(本当、現実)」という言葉はVRCにおいて、非常に興味深い用いられ方がなされているように思われる。

 

身体における「本当」

まず、VRC上で「本当の自分」と言ったとき、VRC外の生身の身体を持つ自分を指すこともあれば、Fallbackでないアバターを指すこともある。

私もQuest初心者にshow avatarの仕方を教える際、「今あなたに見えている自分は『本当の』姿ではありません。」などと言ったりする。

心理における「本当」

だが、心理的な側面からすれば、VRC外の自分よりも、VRC上の自分が「本当の自分」だということもある。たとえば、普段はしっかり者として振舞っているが、実は子供っぽい人が、VRCではしゃいでいるとき、「VRC上の自分が本当の自分」ということはあるだろう。

ただ、このとき、どちらが「本当の自分」と言えるのかはなかなかに難しい問題であるようにも思われる。というのも、人間の心理はそもそも一面的には捉えることのできない複雑さを持っているからだ。

PCVRとQuestとの対比における「本当」

また、PCVRユーザーとQuestユーザーで着ている衣装が異なったり、色の見え方が異なったりするとき、PCVRユーザーからすれば、Questユーザーは「本当の自分」が見えていないということになるだろう。

この際の「本当の」という言葉は、PCVRユーザー自身の主観的な基準によって決まっているように思われるが、実はたんなる主観ではない。というのも、同じPCVRユーザー同士なら本当の姿が見えているという想定がここではなされているからだ。厳密に考えてみれば、PCVRユーザーであっても、色の見え方は多少は異なるはずであるし、そもそも他人が色をどう知覚しているのかは知りようがないはずである(自分と他人が「あの色は赤い」と言っているとき、他人は自分だったら赤ではなくピンクと言うような仕方で色を認識しているかもしれない)。それなのに、PCVRユーザーが「本当の姿」というとき、そこには何らかの客観性が前提とされているように思われるのはなぜなのか。

この問題を考えるうえでは、マクダウェルという哲学者の「価値の客観性」の議論が参考になるかもしれない。マクダウェルによれば、「客観的/主観的」という区別は⼆つの次元で考えられ得るという。

次元①:主観から独⽴という意味での「客観的」/主観のあり⽅に相関的という意味での「主観的」

次元②:主観によるまったくの想像という意味での「主観的」/主観の恣意を許容しないという意味での「客観的」

そして、マクダウェルによれば、⾊、匂い、味など、⼈間の感覚器官のあり⽅に依存する感覚的な性質は、人間が恣意的に感じ方を変更することができるものではない以上、前者の次元においては主観的であるが、後者の次元において主観的であるわけではないことになる。

そして、同じ人でもPCVRを使用しているときとQuestを使用しているときでアバターの見え方が異なると考えられるならば、アバターの見え方は単なる主観によるまったくの想像とは異なる(対象による制約がある)という意味で、後者の次元において主観的であるわけではないということになる。だからこそ、リンゴを指さして、「あのリンゴは赤い」と言ったとき程度の客観性を、PCVRユーザーが「本当の姿」と言うときには期待してもよいということになるのだろう。

 

おわりに

このように、VRCにおける「本当」について考えてきたが、最後のほうは思ったよりも複雑な議論になってしまい、正しい議論になっているのかどうか自信がない。冒頭にも述べた通り、今回の記事はメモ書きのようなものなので、それぞれの問題についてはこれからじっくり考えていこうと思う。