無知の有責性とユーザーランク

はじめに

VRChatを遊んでいると、本来有料で販売されているアバターがPublicになっていたり、漫画やアニメなどの版権キャラクターがアバター化して利用されていたりする場面をたびたび見かける。また、アバターリッピング(不正クローン)の被害報告もTwitterで見かけたこともある。

こうしたアバターの不正利用は、VRChatの利用規約アバター製作者の利用規約に違反しており、その点で非難に値するものである。また、不正なアバターだと知っていながら不正なアバターを利用し続けるのも非難に値するだろう。

だが、その一方で、自分が使用しているアバターが不正なアバターだということを知らず、無邪気に人前で披露するユーザーもいる。もちろん、まだVRChatを始めたばかりのVisitorやNew userが、そのアバターが不正なものであると知らずに使ってしまうことは、仕方のないことであり、その意味で責任を免除されることがあるだろう。しかし、User以上のそれなりにVRChatを遊んでいると見なされているユーザーが、不正アバターを使用することは、たとえそれが不正アバターだと知らずにやっているとしても、多かれ少なかれ非難に値すると思われる。

上記で私が用いている「非難に値する」という基準は私の感覚的なものに過ぎない。だが、以下では私のこの感覚が「何に由来しているのか」を探っていきたいと思う。

なお、当然のことだが、私の感覚が他のVRChatユーザーの一般的な感覚とは異なる可能性もあるし、私の感覚それ自体が今後変化していく可能性は残されている。そもそも、私はまだVRChatを始めて2ヶ月の新参者であり、VRChatにおいて日本人コミュニティが築き上げてきた歴史やモラルを知っているわけではない。その点で、本記事の内容は、VRChatの実情にはまったく即していない可能性もある。

だが、それでも本記事を書こうと思ったのは、本記事を読んだ方が、自分の規範意識を問い直し、考えるきっかけになればよいと思ったからである。

以下では、まず「責任」という概念に関する一般的な説明を述べ、無知にもとづく行為が免責される場合とそうでない場合があることを確認し、無知にもとづく行為に責任が問われる条件について考えていく。そのうえで、VRChat上の不正アバターの利用に対する私の持つ感覚が何に由来するものだったのかを探っていく。

法的責任と道徳的責任

ここでは、「責任」という概念の一般的な説明を見ていこう。まず、我々は自由に行動することができると考えられている*1。我々は、コンビニで水かお茶のどちらを買うかを選択する自由があるし、ムカつく上司の顔も殴ろうと思えば即座に殴れるはずだ。しかし、実際にいくらムカつく上司だからと言って殴りかかることは稀だろう。というのも、もし上司を殴ったとすれば、法的責任を問われたり、会社をクビにされたり、他の人から非難されたりするだろうからだ。

このように、我々の自由な行動は社会規範によって抑制されている。社会規範は、大雑把に言って、法規範と道徳規範の二つに分けることができる。この法規範に違反した場合、行為者は法的責任を追及され、道徳規範に違反した場合は、道徳的責任を追及される。なお、私は道徳的責任と「非難に値すること」をほとんど区別せず用いている。

法と道徳の関係については、長い議論の歴史があるが、ここでは細かく論じない。しかしながら、少なくとも一般に含意されていることとして、法的責任には問われなくても、道徳的責任を問われる場面があるということは確認しておこう。

たとえば、ある駅で、私と荷物を抱えたお年寄りが同じ車両に乗り込んだとする。すると、席が一人分しか空いていなかった。このとき、お年寄りを立たせたまま、私が残りの席に座ったとしても、法的責任を問われるわけではない。しかし、「お前はお年寄りに席を譲るべきだった」と非難されることはおかしなことではないだろう。このように、法的責任を追及されなくとも、道徳的責任を追及されることは日常的によく見られる。

しかし、お年寄りに席を譲らなくても、道徳的責任を問われない場合がある。それは、私が立って電車に乗ることができないほど体調が悪い場合など、私がお年寄りに席を譲ることが困難であった場合だ。
このように、道徳的責任を問われるのは、行為者がその行為を行うことが可能だったかどうかによって左右される。つまり、「『すべき』は『できる』を含意する」という倫理学の原則がここでは適用されていると言えるだろう。

無知にもとづく行為は免責される?

この「『すべき』は『できる』を含意する」という原則に照らせば、無知にもとづく行為も免責されるように思われる。

たとえば、公園のベンチにリュックを置いているAさんが、飲み物を買いに行っている間に、まったく同じデザインの別のリュック(所有者はBさん)が近くのベンチに置かれていたため、そちらが自分のリュックだと勘違いし、そのリュックを持って公園から立ち去ってしまったとしよう。そして、その直後に、Bさんが慌ててAさんを追いかけ、「そのリュックは私のだ」と伝えたとする。そのように言われたAさんは、リュックの中身を確認し、それが自分のリュックでなかったことに気が付くと、おそらく「自分のリュックではないと知らずに持ち帰ろうとしてしまった」とBさんに説明するだろう。すると、BさんはAさんがしたことを非難しようとしないだろう。

だが、もしAさんが自分が持っているリュックが自分のものでないと知りつつ、持って帰ろうとしているならば、BさんはAさんの行為を非難するだろう。

つまり、この場合、Aさんが行った行為は、無知にもとづく行為であったため、すなわち、自分のリュックでないから持ち帰るべきではないと判断することが不可能だっため、免責されたのだと説明できるだろう。

無知にもとづく行為だけど免責されない場合

だが、無知にもとづく行為はすべて免責されるのだろうか。

次のような状況を考えてみよう。調味料の瓶に、砂糖でなく、ヒ素が入っていたとする。X氏はこの事実を知らずに、Z女史のコーヒーにその瓶の中身を入れ、彼女を死なせた。ここで、もしX氏が誰かに騙されて、Z女史のコーヒーにヒ素を入れたのだとすると、X氏に責任はないだろう。しかし、X氏が同じ種類のふたつの瓶にそれぞれ砂糖とヒ素を入れておいて、ラベルを貼らずに置いておき、その後、砂糖を入れるつもりで間違えてヒ素を入れてしまったのであれば、彼は多かれ少なかれ問題の責任を負うことになるだろう*2

このX氏の無知にもとづく行為の有責性をどのように説明すればよいだろうか。以下では、米国の哲学者ギデオン・ローゼンの主張を見ていこう。

ギデオン・ローゼンの主張*3

まず、ギデオン・ローゼンは、「責任」という概念を「起源的責任」と「派生的責任」に区別する(Rosen 2004: 298-299)*4。例えば、飲酒運転によって起こした事故は、平衡感覚や判断力が鈍った状態で運転したことによって生じたもので、ある意味ではその事故を回避する能力が運転手にはなかったと言えるかもしれない。しかし、飲酒した状態で車に乗ると危険であることは知っていたはずである。そして、この運転手が事故を起こしたことによる責任(派生的責任)を持つのは、彼が飲酒運転をしたという責任(起源的責任)を持つからである。
さらに、ローゼンは、「無知にもとづく行為」について次の原理を指摘する。すなわち、XがAを無知にもとづいて行った場合、《XがAをしたことに関して有責であるのは、その行為がもとづく無知に関してAが有責な場合だけである》という原則だ(Rosen 2004: 300)*5

それでは、どのような条件のもとで人は自らの無知に責任を負うのだろうか。これに対し、ローゼンは次の原理を提示する。

XがPを知らないことに責任を負うのは、彼の無知が何らかの先行する有責な行為あるいは怠慢の結果である場合だけである。(Rosen 2004: 301*6

X氏の例で言えば、砂糖とヒ素を同じ種類のふたつの瓶に入れ、ラベルも貼らないで保管していれば、砂糖とヒ素を間違う危険性が高いことは容易に想像がつく。その場合、X氏が無知にもとづいてヒ素をZ女史のコーヒーに入れたという行為が有責だと言えるのは、X氏がコーヒーに入れた物質がヒ素だと知らなかったことが、X氏の有責な行為あるいは怠慢によるものだからである。実際、X氏に対し「砂糖とヒ素を紛らわしい仕方で保管すべきでなかった」と非難することはできるだろう。

だが、確かに、X氏が「砂糖とヒ素を紛らわしい仕方で保管すべきでない」という規範を知っていながら、紛らわしい保管をしていたのであればX氏は有責かもしれない*7。しかし、X氏のようなケースでより多く見られるのは、砂糖とヒ素を紛らわしい仕方で保管したのは、「砂糖とヒ素を紛らわしい仕方で保管すべきでなかった」という規範を知らなかったからではないだろうか。この場合、「X氏が無知であったのは、別の無知にもとづく行為によってである」ということになる。すると、X氏の無知が有責であるとは言えなくなるだろう。

フィッツパトリックの主張*8

上記の点について、応答の仕方はいくつかあるが、ここでは、フィッツパトリックによる提案を紹介する。

ローゼンの考えでは、X氏が有責なのは、「砂糖とヒ素を紛らわしい仕方で保管すべきでない」という規範を知っていながら、紛らわしい保管をしていた場合だけだというものだった。そして、この考えでは、X氏が「砂糖とヒ素を紛らわしい仕方で保管すべきでなかった」という規範を知らない限りX氏は有責でないということになるのであった。

しかし、フィッツパトリックは、X氏は「砂糖とヒ素を紛らわしい仕方で保管すべきでなかった」という規範を知らなかったとしても、「砂糖とヒ素を紛らわしい仕方で保管すべきでなかった」という正しい道徳的規範を知ることができたということを合理的に期待することが可能であったため、X氏は有責であると考えた。《正しい道徳的規範を知り得た》と合理的に期待することが可能だというのは、X氏がヒ素を手元に置くならそれが危険なものであるかどうかを予め調べることができたし、ヒ素を保管する際の注意点なども調べることができたはずである。しかし、X氏はそうした行為の選択肢があって、それを選び取ることが可能だったにもかかわらず、そうしなかったことによって、「砂糖とヒ素を紛らわしい仕方で保管すべきでなかった」という規範について無知な状態となってしまい、結果的にZ女史のコーヒーにヒ素を入れてしまった。このように、X氏は規範を知り得たことが合理的に期待される、つまり規範を知るための行為を選びえたということこそ、ヒ素を入れたという行為に責任を帰する根拠になるというのが、フィッツパトリックの考えである。

無知による不正アバターの利用の有責性

さて、冒頭の不正アバターの話に戻ろう。

まず、前提として、自分が使用しているアバターが不正なアバターだということを知らずに使用しているユーザーについて考える。

このとき、「『すべき』は『できる』を含意する」という倫理学の原則に基づくと、そのアバターを使用することがよくないことだと知らなければ、それを使わないようにしようと考えることがそもそもできないため、道徳的責任を帰することはできないように思われる。

だが、ローゼンの「XがPを知らないことに責任を負うのは、彼の無知が何らかの先行する有責な行為あるいは怠慢の結果である場合だけである」という考えや、フィッツパトリックの「正しい道徳的規範を知ることができたということへの合理的期待が有責性の根拠となる」という考え方のように、無知にもとづく行為であっても有責性を帰することは可能である。

そして、冒頭で述べたような、VRChatを始めたばかりのVisitorやNew userが、そのアバターが不正なものであると知らずに使ってしまうことは、仕方のないことであり、免責されるが、User以上のユーザーが、不正アバターを使用することは、たとえそれが不正アバターだと知らずにやっているとしても、多かれ少なかれ非難に値するという感覚を私が持っているのは、フィッツパトリックの合理的期待という考えに近い発想を私が持っているからだと思われる

つまり、ユーザーランクがUser以上のユーザーであれば、VRChatをプレイしたり、様々な人と交流するなかで、不正なアバターを使用すべきでないという規範を知る機会はあったはずだし、インターネットでVRChatの規約やVRChatの日本語版Wikiを調べて利用規約を確認することもできたはずである。その意味で、ユーザーランクがUser以上のユーザーには、不正なアバターを使用すべきでないという規範を知ることができたということを合理的に期待できるだろう。だからこそ、User以上で不正アバターを使用する人は、仮にそれが無知にもとづく行為だったとしても、非難に値すると考えるのである。

一方、VisitorやNew userは、まだVRChatを始めたばかりであり、使用してはならないアバターがあることや、それが出回ってクローンできる状態になっていることを知らないことは仕方がないと考える。したがって、VisitorやNew userが不正アバターを使用していたとしても、非難に値しないと考えるのだろう。

ただ、ここで注意しなければならない点が一つある。それは、User以上が不正なアバターを使っているからと言って、それが不正だと分かっていながら不正なアバターを使用する人と、不正だと知らずに使用している人への非難の仕方は異なるということである。前者は悪意があり、より強い非難に値するが、後者は無知であることには多少なり責任があると思うが、悪意があったわけではなく、強く非難することが適切だとは思わない。「それ、使っちゃいけないアバター使っているよ」と一言言えば十分だろう

無知の有責性とユーザーランク

以上、無知の有責性とユーザーランクについて見てきた。

私の結論としては、VisitorやNew userはVRChat上のルールを知らないことによって違反してしまうのは仕方のないことであるが、User以上のユーザーは知らないことに一定の責任を負うという感覚を私が持っているということである。そしてそれは、User以上は、VRChat上のルールについて一定の理解を持っていることが合理的に期待でき、この合理的期待が有責性の根拠になるという考えを私が持っていることに由来する。

ただし、私のこの感覚は、いささか強すぎるものである。というのも、User以上のプレイヤーがVRChat上のルールをすべて知っているとは考えられないし、私自身Userだが知らないことばかりである。しかしながら、不正なアバターのような頻繫に問題として取り上げられるものについては、少なくとも知っておくべきだったと言うことは可能なのかもしれない。

また、VisitorやNew userであっても、不正アバターを利用してもよいというわけではない。たまに初心者案内をするが、毎回アバターに関する説明では、不正なアバターを使用しないように気を付けてという注意喚起をするようにしている。とはいえ、VisitorやNew userに、長々と注意事項を説明するよりは、まずはVRChatの楽しいことを存分に体験してもらうことのほうが大事だと思うし、よくわからない自分ルールを押し付けるユーザーがいるという話もあり、いつ、何を、どの程度説明すべきかというのは難しい。だが、最低限守らなければならないルールを教えるのも、User以上には求められるのではないだろうか

参考文献

山口尚(2018)「知識と有責性―ギデオン・ローゼンの論証をめぐって」応用哲学会『Contemporary and Applied Philosophy』10: 23-50、

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/233622/1/cap_10_23.pdf

 

本記事は、山口論文(2018)に依拠して執筆した。山口論文は、本論文でも触れたローゼンの無知と有責性に関する議論をめぐって、フィッツパトリック、レヴィ、ハーマン、タルバートといった論者がどのように議論を展開していったのかが分かりやすくまとめられている。本記事では、ローゼンとフィッツパトリックの議論の一部を取り出したにすぎず、まだまだ重要な論点がいくつも残されている。本記事を読んで知識と有責性に関する議論に関心を持った読者は、ぜひ山口論文を一読することを薦める。

 

 

*1:決定論の立場を取る論者ならこの点は同意しないかもしれない。

*2:山口 2018: 25

*3:山口 2018: 24-28

*4:山口 2018: 25

*5:山口 2018: 25-26

*6:山口 2018: 26の孫引き

*7:あることを行うべきでないと知りつつ、行うことを「アクラシア」と呼ぶ。ローゼンは、このアクラシアにもとづく行為だけが有責性の根拠になり得ると考えたが、同時に有限な認識能力しか持たない我々がある行為がアクラシアであるか否かを判断することができず、そのためいかなる行為も確信をもって非難することができないと主張した。(山口 2018: 27-28)

*8:山口 2018: 28-34