無知の有責性とユーザーランク

はじめに

VRChatを遊んでいると、本来有料で販売されているアバターがPublicになっていたり、漫画やアニメなどの版権キャラクターがアバター化して利用されていたりする場面をたびたび見かける。また、アバターリッピング(不正クローン)の被害報告もTwitterで見かけたこともある。

こうしたアバターの不正利用は、VRChatの利用規約アバター製作者の利用規約に違反しており、その点で非難に値するものである。また、不正なアバターだと知っていながら不正なアバターを利用し続けるのも非難に値するだろう。

だが、その一方で、自分が使用しているアバターが不正なアバターだということを知らず、無邪気に人前で披露するユーザーもいる。もちろん、まだVRChatを始めたばかりのVisitorやNew userが、そのアバターが不正なものであると知らずに使ってしまうことは、仕方のないことであり、その意味で責任を免除されることがあるだろう。しかし、User以上のそれなりにVRChatを遊んでいると見なされているユーザーが、不正アバターを使用することは、たとえそれが不正アバターだと知らずにやっているとしても、多かれ少なかれ非難に値すると思われる。

上記で私が用いている「非難に値する」という基準は私の感覚的なものに過ぎない。だが、以下では私のこの感覚が「何に由来しているのか」を探っていきたいと思う。

なお、当然のことだが、私の感覚が他のVRChatユーザーの一般的な感覚とは異なる可能性もあるし、私の感覚それ自体が今後変化していく可能性は残されている。そもそも、私はまだVRChatを始めて2ヶ月の新参者であり、VRChatにおいて日本人コミュニティが築き上げてきた歴史やモラルを知っているわけではない。その点で、本記事の内容は、VRChatの実情にはまったく即していない可能性もある。

だが、それでも本記事を書こうと思ったのは、本記事を読んだ方が、自分の規範意識を問い直し、考えるきっかけになればよいと思ったからである。

以下では、まず「責任」という概念に関する一般的な説明を述べ、無知にもとづく行為が免責される場合とそうでない場合があることを確認し、無知にもとづく行為に責任が問われる条件について考えていく。そのうえで、VRChat上の不正アバターの利用に対する私の持つ感覚が何に由来するものだったのかを探っていく。

法的責任と道徳的責任

ここでは、「責任」という概念の一般的な説明を見ていこう。まず、我々は自由に行動することができると考えられている*1。我々は、コンビニで水かお茶のどちらを買うかを選択する自由があるし、ムカつく上司の顔も殴ろうと思えば即座に殴れるはずだ。しかし、実際にいくらムカつく上司だからと言って殴りかかることは稀だろう。というのも、もし上司を殴ったとすれば、法的責任を問われたり、会社をクビにされたり、他の人から非難されたりするだろうからだ。

このように、我々の自由な行動は社会規範によって抑制されている。社会規範は、大雑把に言って、法規範と道徳規範の二つに分けることができる。この法規範に違反した場合、行為者は法的責任を追及され、道徳規範に違反した場合は、道徳的責任を追及される。なお、私は道徳的責任と「非難に値すること」をほとんど区別せず用いている。

法と道徳の関係については、長い議論の歴史があるが、ここでは細かく論じない。しかしながら、少なくとも一般に含意されていることとして、法的責任には問われなくても、道徳的責任を問われる場面があるということは確認しておこう。

たとえば、ある駅で、私と荷物を抱えたお年寄りが同じ車両に乗り込んだとする。すると、席が一人分しか空いていなかった。このとき、お年寄りを立たせたまま、私が残りの席に座ったとしても、法的責任を問われるわけではない。しかし、「お前はお年寄りに席を譲るべきだった」と非難されることはおかしなことではないだろう。このように、法的責任を追及されなくとも、道徳的責任を追及されることは日常的によく見られる。

しかし、お年寄りに席を譲らなくても、道徳的責任を問われない場合がある。それは、私が立って電車に乗ることができないほど体調が悪い場合など、私がお年寄りに席を譲ることが困難であった場合だ。
このように、道徳的責任を問われるのは、行為者がその行為を行うことが可能だったかどうかによって左右される。つまり、「『すべき』は『できる』を含意する」という倫理学の原則がここでは適用されていると言えるだろう。

無知にもとづく行為は免責される?

この「『すべき』は『できる』を含意する」という原則に照らせば、無知にもとづく行為も免責されるように思われる。

たとえば、公園のベンチにリュックを置いているAさんが、飲み物を買いに行っている間に、まったく同じデザインの別のリュック(所有者はBさん)が近くのベンチに置かれていたため、そちらが自分のリュックだと勘違いし、そのリュックを持って公園から立ち去ってしまったとしよう。そして、その直後に、Bさんが慌ててAさんを追いかけ、「そのリュックは私のだ」と伝えたとする。そのように言われたAさんは、リュックの中身を確認し、それが自分のリュックでなかったことに気が付くと、おそらく「自分のリュックではないと知らずに持ち帰ろうとしてしまった」とBさんに説明するだろう。すると、BさんはAさんがしたことを非難しようとしないだろう。

だが、もしAさんが自分が持っているリュックが自分のものでないと知りつつ、持って帰ろうとしているならば、BさんはAさんの行為を非難するだろう。

つまり、この場合、Aさんが行った行為は、無知にもとづく行為であったため、すなわち、自分のリュックでないから持ち帰るべきではないと判断することが不可能だっため、免責されたのだと説明できるだろう。

無知にもとづく行為だけど免責されない場合

だが、無知にもとづく行為はすべて免責されるのだろうか。

次のような状況を考えてみよう。調味料の瓶に、砂糖でなく、ヒ素が入っていたとする。X氏はこの事実を知らずに、Z女史のコーヒーにその瓶の中身を入れ、彼女を死なせた。ここで、もしX氏が誰かに騙されて、Z女史のコーヒーにヒ素を入れたのだとすると、X氏に責任はないだろう。しかし、X氏が同じ種類のふたつの瓶にそれぞれ砂糖とヒ素を入れておいて、ラベルを貼らずに置いておき、その後、砂糖を入れるつもりで間違えてヒ素を入れてしまったのであれば、彼は多かれ少なかれ問題の責任を負うことになるだろう*2

このX氏の無知にもとづく行為の有責性をどのように説明すればよいだろうか。以下では、米国の哲学者ギデオン・ローゼンの主張を見ていこう。

ギデオン・ローゼンの主張*3

まず、ギデオン・ローゼンは、「責任」という概念を「起源的責任」と「派生的責任」に区別する(Rosen 2004: 298-299)*4。例えば、飲酒運転によって起こした事故は、平衡感覚や判断力が鈍った状態で運転したことによって生じたもので、ある意味ではその事故を回避する能力が運転手にはなかったと言えるかもしれない。しかし、飲酒した状態で車に乗ると危険であることは知っていたはずである。そして、この運転手が事故を起こしたことによる責任(派生的責任)を持つのは、彼が飲酒運転をしたという責任(起源的責任)を持つからである。
さらに、ローゼンは、「無知にもとづく行為」について次の原理を指摘する。すなわち、XがAを無知にもとづいて行った場合、《XがAをしたことに関して有責であるのは、その行為がもとづく無知に関してAが有責な場合だけである》という原則だ(Rosen 2004: 300)*5

それでは、どのような条件のもとで人は自らの無知に責任を負うのだろうか。これに対し、ローゼンは次の原理を提示する。

XがPを知らないことに責任を負うのは、彼の無知が何らかの先行する有責な行為あるいは怠慢の結果である場合だけである。(Rosen 2004: 301*6

X氏の例で言えば、砂糖とヒ素を同じ種類のふたつの瓶に入れ、ラベルも貼らないで保管していれば、砂糖とヒ素を間違う危険性が高いことは容易に想像がつく。その場合、X氏が無知にもとづいてヒ素をZ女史のコーヒーに入れたという行為が有責だと言えるのは、X氏がコーヒーに入れた物質がヒ素だと知らなかったことが、X氏の有責な行為あるいは怠慢によるものだからである。実際、X氏に対し「砂糖とヒ素を紛らわしい仕方で保管すべきでなかった」と非難することはできるだろう。

だが、確かに、X氏が「砂糖とヒ素を紛らわしい仕方で保管すべきでない」という規範を知っていながら、紛らわしい保管をしていたのであればX氏は有責かもしれない*7。しかし、X氏のようなケースでより多く見られるのは、砂糖とヒ素を紛らわしい仕方で保管したのは、「砂糖とヒ素を紛らわしい仕方で保管すべきでなかった」という規範を知らなかったからではないだろうか。この場合、「X氏が無知であったのは、別の無知にもとづく行為によってである」ということになる。すると、X氏の無知が有責であるとは言えなくなるだろう。

フィッツパトリックの主張*8

上記の点について、応答の仕方はいくつかあるが、ここでは、フィッツパトリックによる提案を紹介する。

ローゼンの考えでは、X氏が有責なのは、「砂糖とヒ素を紛らわしい仕方で保管すべきでない」という規範を知っていながら、紛らわしい保管をしていた場合だけだというものだった。そして、この考えでは、X氏が「砂糖とヒ素を紛らわしい仕方で保管すべきでなかった」という規範を知らない限りX氏は有責でないということになるのであった。

しかし、フィッツパトリックは、X氏は「砂糖とヒ素を紛らわしい仕方で保管すべきでなかった」という規範を知らなかったとしても、「砂糖とヒ素を紛らわしい仕方で保管すべきでなかった」という正しい道徳的規範を知ることができたということを合理的に期待することが可能であったため、X氏は有責であると考えた。《正しい道徳的規範を知り得た》と合理的に期待することが可能だというのは、X氏がヒ素を手元に置くならそれが危険なものであるかどうかを予め調べることができたし、ヒ素を保管する際の注意点なども調べることができたはずである。しかし、X氏はそうした行為の選択肢があって、それを選び取ることが可能だったにもかかわらず、そうしなかったことによって、「砂糖とヒ素を紛らわしい仕方で保管すべきでなかった」という規範について無知な状態となってしまい、結果的にZ女史のコーヒーにヒ素を入れてしまった。このように、X氏は規範を知り得たことが合理的に期待される、つまり規範を知るための行為を選びえたということこそ、ヒ素を入れたという行為に責任を帰する根拠になるというのが、フィッツパトリックの考えである。

無知による不正アバターの利用の有責性

さて、冒頭の不正アバターの話に戻ろう。

まず、前提として、自分が使用しているアバターが不正なアバターだということを知らずに使用しているユーザーについて考える。

このとき、「『すべき』は『できる』を含意する」という倫理学の原則に基づくと、そのアバターを使用することがよくないことだと知らなければ、それを使わないようにしようと考えることがそもそもできないため、道徳的責任を帰することはできないように思われる。

だが、ローゼンの「XがPを知らないことに責任を負うのは、彼の無知が何らかの先行する有責な行為あるいは怠慢の結果である場合だけである」という考えや、フィッツパトリックの「正しい道徳的規範を知ることができたということへの合理的期待が有責性の根拠となる」という考え方のように、無知にもとづく行為であっても有責性を帰することは可能である。

そして、冒頭で述べたような、VRChatを始めたばかりのVisitorやNew userが、そのアバターが不正なものであると知らずに使ってしまうことは、仕方のないことであり、免責されるが、User以上のユーザーが、不正アバターを使用することは、たとえそれが不正アバターだと知らずにやっているとしても、多かれ少なかれ非難に値するという感覚を私が持っているのは、フィッツパトリックの合理的期待という考えに近い発想を私が持っているからだと思われる

つまり、ユーザーランクがUser以上のユーザーであれば、VRChatをプレイしたり、様々な人と交流するなかで、不正なアバターを使用すべきでないという規範を知る機会はあったはずだし、インターネットでVRChatの規約やVRChatの日本語版Wikiを調べて利用規約を確認することもできたはずである。その意味で、ユーザーランクがUser以上のユーザーには、不正なアバターを使用すべきでないという規範を知ることができたということを合理的に期待できるだろう。だからこそ、User以上で不正アバターを使用する人は、仮にそれが無知にもとづく行為だったとしても、非難に値すると考えるのである。

一方、VisitorやNew userは、まだVRChatを始めたばかりであり、使用してはならないアバターがあることや、それが出回ってクローンできる状態になっていることを知らないことは仕方がないと考える。したがって、VisitorやNew userが不正アバターを使用していたとしても、非難に値しないと考えるのだろう。

ただ、ここで注意しなければならない点が一つある。それは、User以上が不正なアバターを使っているからと言って、それが不正だと分かっていながら不正なアバターを使用する人と、不正だと知らずに使用している人への非難の仕方は異なるということである。前者は悪意があり、より強い非難に値するが、後者は無知であることには多少なり責任があると思うが、悪意があったわけではなく、強く非難することが適切だとは思わない。「それ、使っちゃいけないアバター使っているよ」と一言言えば十分だろう

無知の有責性とユーザーランク

以上、無知の有責性とユーザーランクについて見てきた。

私の結論としては、VisitorやNew userはVRChat上のルールを知らないことによって違反してしまうのは仕方のないことであるが、User以上のユーザーは知らないことに一定の責任を負うという感覚を私が持っているということである。そしてそれは、User以上は、VRChat上のルールについて一定の理解を持っていることが合理的に期待でき、この合理的期待が有責性の根拠になるという考えを私が持っていることに由来する。

ただし、私のこの感覚は、いささか強すぎるものである。というのも、User以上のプレイヤーがVRChat上のルールをすべて知っているとは考えられないし、私自身Userだが知らないことばかりである。しかしながら、不正なアバターのような頻繫に問題として取り上げられるものについては、少なくとも知っておくべきだったと言うことは可能なのかもしれない。

また、VisitorやNew userであっても、不正アバターを利用してもよいというわけではない。たまに初心者案内をするが、毎回アバターに関する説明では、不正なアバターを使用しないように気を付けてという注意喚起をするようにしている。とはいえ、VisitorやNew userに、長々と注意事項を説明するよりは、まずはVRChatの楽しいことを存分に体験してもらうことのほうが大事だと思うし、よくわからない自分ルールを押し付けるユーザーがいるという話もあり、いつ、何を、どの程度説明すべきかというのは難しい。だが、最低限守らなければならないルールを教えるのも、User以上には求められるのではないだろうか

参考文献

山口尚(2018)「知識と有責性―ギデオン・ローゼンの論証をめぐって」応用哲学会『Contemporary and Applied Philosophy』10: 23-50、

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/233622/1/cap_10_23.pdf

 

本記事は、山口論文(2018)に依拠して執筆した。山口論文は、本論文でも触れたローゼンの無知と有責性に関する議論をめぐって、フィッツパトリック、レヴィ、ハーマン、タルバートといった論者がどのように議論を展開していったのかが分かりやすくまとめられている。本記事では、ローゼンとフィッツパトリックの議論の一部を取り出したにすぎず、まだまだ重要な論点がいくつも残されている。本記事を読んで知識と有責性に関する議論に関心を持った読者は、ぜひ山口論文を一読することを薦める。

 

 

*1:決定論の立場を取る論者ならこの点は同意しないかもしれない。

*2:山口 2018: 25

*3:山口 2018: 24-28

*4:山口 2018: 25

*5:山口 2018: 25-26

*6:山口 2018: 26の孫引き

*7:あることを行うべきでないと知りつつ、行うことを「アクラシア」と呼ぶ。ローゼンは、このアクラシアにもとづく行為だけが有責性の根拠になり得ると考えたが、同時に有限な認識能力しか持たない我々がある行為がアクラシアであるか否かを判断することができず、そのためいかなる行為も確信をもって非難することができないと主張した。(山口 2018: 27-28)

*8:山口 2018: 28-34

VRChatを始めて感じたこと

はじめに

前々からVRChatを遊んでいて感じたことを文章化しようと思っていたのだが、明日がVRChatを始めてちょうど2ヶ月になるということで、いい機会だと思い、筆を執ってみることにした。

予め断っておくが、私は人に読ませる文章を書くのは得意ではないし、書かれている内容も陳腐なものになっているだろう。しかし、それでも読んでくださる方がいれば、私にとってこれほど嬉しいことはない。

今回書いた文章は、あくまで2022年7月5日時点での私の考えであり、今後考えが変わることは大いにあり得るだろう。また、説明が不十分な点については、補足を加えていこうとは思う。

また、文章中はなるべく日常的に使用される言葉で語ることを心がけた。それは、あくまで今回の文章は自分自身が思ったことを率直に表現することを目的としているからである。

自己紹介

まずは、簡単に私という人間について自己紹介をしておこう。

私は、daredemonaiというユーザー名でVRChatを遊んでいる。名前の由来は、本アカウントとは区別して作成したTwitterのアカウント名「誰でもない誰か」にある。これは、名前や所属から切り離されているという意味で「誰でもない」が、それでも一つの自我を持った「誰か」であるという意味を込めて付けた名前だ。ただ、ぶっちゃけ適当である。

私は現在、倫理学を研究している大学院生である。ただ、研究室では教員や院生の先輩数人としか話さず、会話の内容も研究に関することがほとんどという状況だった。そこで、何気ない話をする相手や気の合う友達を探す目的で、VRChatを始めてみた。

5月6日の19時に初めてVRChatの世界に飛び込んで以来、2ヶ月で実に300人近くのフレンドができ、交流の輪は驚くほど広がった。一度会っただけでそれっきりという人も多いが、一緒に遊んでくれる方やイベントで会えば声をかけてくださる方もそれなりにいて、非常に恵まれているなと感じている。

ちなみに、お金がないので、Quest2単機で遊んでいる。

美少女のアバターを身に纏うということ

さて、ここからは、話題をがらっと変えて、私がVRChatを始めて感じたことについて語っていこうと思う。

まずは、私が美少女アバターを身に纏うようになって感じたことについて述べよう。

私が現在主に使用しているアバターは、キュビ氏が作成した「舞夜」ちゃんである。

VRChatを始める前までは、自分が美少女のアバターを着ることに、少しばかりの抵抗を抱いており、最初は犬などの動物系のアバターを使用しようと考えていた。しかし、いざVRChatを始めて、目の前で可愛いアバターが動いているのを見ると、「羨ましいなぁ」「自分も可愛いアバターを着たいなぁ」と思うようになり、初日からmio3io氏の薄荷ちゃんのサンプルアバターを使用するようになった。

さて、ここからが本題であるが、自分が美少女アバターを使用するようになって生じた変化は主に3つある。以下、順番に説明していこう。

①もっと可愛くなりたい

まず1つは、自分が可愛いアバターを着ながら、他の人の可愛いアバターを見ていくなかで、「もっと可愛くなりたい」という欲求が生まれたことである。もちろん、舞夜ちゃんはそのままの状態でも可愛いが、似合う他の洋服を着せたり、写真を撮る際には可愛いポーズを取ったりしようとするようになった。

ここでポイントなのは、私にとっては、「舞夜ちゃんをもっと可愛くしたい」よりも「もっと可愛くなりたい」という表現がしっくりくるということである。つまり、キャラクターを可愛くしてそれを眺めるというよりも、自分が可愛くなることそれ自体に喜びを感じているということである。なぜ、自分が可愛くなることに喜びを感じているのかを分析することは、現時点での私の能力では困難である。というのも、それは精神分析社会学といった学問領域に足を踏み入れることになりそうだからだ。ただ、一つ言えることは、当初思いもしなかったほど、私にとって「私」と「美少女アバター」は融合しており、今自分が使用しているまさにそのアバターを「私自身」だと感じているということである。

②性的な視線を向けられる不快さ

①で述べたように、どうやら私は「私自身」と「美少女アバター」を融合させたような感覚を抱いているらしい。これに関連して、自分自身のアバターが性的な目で見られることに嫌悪感を抱くようになった。例えば、「下着を覗かれる」「許可なく身体を触られる」といったことをされると、強い不快感を抱く。これが男性アバターを着ていた場合(下着が見えるようなアバターを着たことはないが)、下着が見られても不快感は抱かないように思われる。また、自分が動物アバターでいる場合、いきなり撫でられてもまったく不快感は感じない。このような「美少女アバター」と「男性アバター」や「動物アバター」との不快感の感じ方の違いは、そこに性的に見られているか否かという差に関係していると思われる。

私は男性としてこれまで社会で生きてきてあからさまに性的な目で見られた経験はないが、自分が性的な目で見られるということが、これほど恐怖と嫌悪を感じるものだとは思わなかった。また、性別に限らず、実際の生活で性的な目で見られている人が感じる恐怖と嫌悪は、VRChat上で経験するものとは比べられないほどだと想像する。

③「美少女アバター」と表現することについて

これまで、自分が「美少女アバター」を身に纏うようになって感じたことについて述べてきた。ここまで読んでくださった方のなかには、「なぜお前は「女性アバター」ではなく「美少女アバター」と書くんだ」と思われた方もいるかもしれない。

私は、昔からテレビや周囲の会話のなかで、相手の容姿を評価するような発言がされることが嫌いだった。そして、自分自身、あまり他者の容姿を気にしていないと思ってきた。

だが、VRChatを始めて、自分がアバターを選ぶことができるようになった際、どんな容姿のアバターでもいいかと思えばそうではなく、「より可愛い」アバターが良いと思ってしまうのである。そういう意味で、自分は意識的に「美少女アバター」を選んで、身に纏っているのである。

自分のなかのこの「美少女アバター」を良いと思う気持ちは、偽らざる本音であり、その気持ちを無視してVRChatを遊ぼうとは今のところは考えていないが、美少女アバターを身に纏いながらも、自分のこの考え方はルッキズムになるのではという懸念が拭えない。

「美少女アバター」を着ることは倫理的に正しいのかどうかというのは、今後も考えていかなければならない問題だと思っている。

他者との接し方について

これまで、自分が美少女アバターを身に纏うなかで感じたことを述べてきたが、以下ではVRChat上で他者と接していくなかで考えたことについて語っていこうと思う。ここでは、テーマを2つに絞って書いていきたい。

①プレイヤーの性別とアバターのタイプごとの接し方の違い

VRChatを遊んでいて気が付いたことだが、私はプレイヤーの性別とアバターのタイプによって接し方を変えているようである。特に、相手のアバターを撫でるか否かという点で差が見られる。

①男性プレイヤーについて

まず、美少女アバターを着ている男性プレイヤーについては、相手との関係性によって変化はするが、基本的に相手の頭や顔を撫でることはできる。本当のことを言えば、まだ顔を撫でたり撫でられたりするのには、照れてしまうのだが.......。

だが、男性アバターを着ている男性プレイヤーを撫でようとは思わない。というのも、男を撫でたいとは思わないからである。

ただし、動物アバターについては、たくさん撫でる。このときは、美少女アバターを撫でるよりも照れが少ない。

②女性プレイヤーについて

美少女アバターを着ている女性プレイヤーについては、基本的に撫でようとは思わない。撫でてほしいと言われれば撫でることはできるが、それも極めて遠慮がちになってしまう。

また、男性アバターを着ている女性プレイヤーも撫でることは基本的にない。

ただし、動物アバターを着ている女性プレイヤーに対しては、撫でることに抵抗はない。

③生物学的には男性だが、女性のように振舞っているプレイヤーについて(ボイチェン、両声類含む)

②の女性プレイヤーと全く同じような接し方になる。

④生物学的には女性だが、男性のように振舞っているプレイヤーについて(ボイチェン、両声類含む)

このタイプはあまり出会ったことがないため分からないが、予想では、女性プレイヤーのような接し方になるような気がする。

⑤無言勢で性別が不明な方について

アバターの性別に応じた接し方になる。例えば、女性アバターに対しては、女性プレイヤーに対するような接し方をするが、男性アバターに対しては、男性プレイヤーのように接する。

小括

以上のように、私はプレイヤーの性別とアバターのタイプに応じて、接し方を変えているようだ。また、これは一つの規範意識にもなっており、他のプレイヤーの振舞いを評価する一つの基準にもなっているようである。例えば、ある男性プレイヤーが、女性プレイヤーを撫でたり、近づいたりするのを見ると、そうすべきでないと思ってしまう。ただ、当然ながら、プレイヤー同士の最適な関係性や距離感は、その個々のプレイヤーによって変わるものであり、私のように、アバターあるいはプレイヤーの性別に縛られる考え方はあまり良くないのだろう。これは、自分のなかで改めていかなければならない部分だとも思っている。ただ、このような自分のなかの規範意識がどこから生じてきたのかを考えることは面白そうだ。

②人と良好な関係を築くことの大変さ

冒頭で、VRChatを始めた目的に、何気ない話をする相手や気の合う友達を探すというものを挙げた。この目的を達成するために、Publicの日本人がいるWorldを巡ったり、イベント(主に居場所集会)に参加したりして、様々な人と出会い、交流した。

だが、交流する相手も自分もAIではなく、一人の生身の人間であり、人間同士が関わる以上、好き勝手振舞うことは許されず、配慮や気配りをする必要がある。例えば、相手が話したいことを話せるように会話を回すことや、話しやすい雰囲気を作ることなどは、常に重要になるだろう。ただ、これは一方が配慮すればいいというわけではなく、双方が互いに配慮し合うことによって、初めて互いが居心地が良いと感じられる空間が出来上がるのだと思う(なお、遠慮なしの良好な関係というのもあるかもしれないが、それは最初から目指すものではなく、自然に出来上がるものだと思っている)

だが、相手があまり自分を配慮してくれない場合、自分がストレスを感じてしまうのは避けられない。

その一方で、自分自身、常に相手に対し配慮できているかというとそうではない。むしろ、疲れているときには、対応が雑になってしまうことが多々ある。

ただ、これに関しては、「人間関係というのはそういうもの」なのだと思う。そして、今はまだ相手に対する配慮を欠いてしまうこともあるが、沢山の人と接していくうちに、徐々に適切に振舞うことができるようになっていくのだと思う。

そして何より、今の時点でも、本当に多くの方と交流することができ、私にとって非常に居心地の良い関係を築いてくれているフレンドさんも何人もいる。優しいフレンドの皆さんがいるおかげで、今VRChatを楽しむことができている。だからこそ、自分も可能な限りフレンドさんに対して優しく、居心地の良い関係であり続けられるよう努力していきたい。

おわりに

まだまだ書きたいネタはあるが、ちょうど5000字くらいになるので、いったんここで区切ろうと思う。新たなトピックや、哲学的な概念を用いた考察なども暇があれば書いてみようと思う。

最後になるが、VRChatを始めたおかげで、本当に楽しく刺激的な毎日が送れるようになった。特に、一緒に仲良くしてくれるフレンドの皆さんには、感謝の念に堪えない。